腕時計 3
「高橋様はその犯人を捕まえたい、ということでございますね」
店主の言葉に私はゆっくりと頷いた。
「大変恐れ入りますが、必ず犯人に会えるというお約束はできかねます。それでもよろしければご利用いただけますが、いかがでしょうか」
「捕まえられるかどうかは私次第ってことでしょ? 大丈夫。しっかり捕縛したいわけじゃなくて、顔を見るだけでもいいから」
顔でも服装でも覚えることが出来れば、調べる方法はいくらでもある。
弟を突き落とした犯人は、突き落とした後助けを呼んでいる。ということは、罪悪感はあるのでは? それならその場で問い詰めれば自首するかもしれない。
「大変申し訳ないのですが、時間指定は出来かねます。日付と午前、午後程度の指定でしたら可能でございますが、時間移動した先でどのくらい滞在できるかもお約束できかねます」
「……それは、つまり、全く見当違いの時間に行くこともあるし、そこから待つことも出来ないし、それどころか事件が起きた後に着いちゃうこともあるってこと?」
「さようでございます」
なんだそれ! それじゃ本当にお気楽な時間「旅行」しかできないんじゃないか。
期待外れだ。私は山の空気を吸いに行きたいわけじゃない。
「高橋様が行くべきだと判断されればご案内可能でございますが、いかかでしょうか」
「行くべきか」
私は行くべきだろうか。無駄足になったとしても? 現地に行くだけなら意味がない。というか行くだけならすでに行ってきたし。
事件前に行けるならいい。展望台には人が少なかったと聞いている。その場にいる人を覚えてひとつずつ当たって行けばいい。でも事件後なら犯人は逃げている可能性が高い。無駄足だ。
ふと店主を見るとさっきと変わらない笑顔で私を見ていた。
私が、行くべきか。
「行きます」
ダメ元でここに来たんだ。最後までやろう。
「かしこまりました。日付はいつをご希望でしょうか」
「先週の火曜日の……午前中」
事件は大体11時ごろ。午後に近い微妙な時間だ。
店主はカウンターの下からタブレットを取り出す。時間旅行ってこれを使うの? 映し出されているのは日本地図だった。
「場所はどちらでしょうか」
タブレットを受け取って山を表示する。どんなに拡大しても展望台は表示されないのが悔しい。
「この山の展望台なんだけど」
「その地図上でおおよそどの辺りか分かりますか?」
「大体この辺だと思う」
「そこまでお分かりなら多少のズレは生じますが、全く違う場所へ到着することはないかと存じます」
「展望台近辺ははぼ崖なんだけど大丈夫? 落ちたりしない?」
「絶対ないとはお約束出来かねますが、今までそのようなことはございませんので、可能性としては低いかと存じます」
今までない、なら多分、大丈夫、と思いたい。
「今すぐ行けます? 何をすればいいの? 何か必要なものはある?」
行くと決めると早く行きたいという気持ちでいっぱいだった。
「今すぐ可能でございます。高橋様は椅子にお掛けになったまま目を閉じていただくだけで結構でございます。必要なものというのは、大変恐れ入りますがこちらに戻ってきましたら、利用料金を頂戴いたしますのでご了承くださいませ」
「50万までなら即金で出せます」
「金額につきましてはお客様に決めていただいております」
「え? 私が決めるって事?」
お客様満足度アンケートみたいなものだろうか。
「なら大丈夫です。さっさと行きましょう」
「よろしいですか? その他にご不明点や気になることなどございますか?」
「ないです。私の思い通りに行くか分からないんでしょ? 行ってみてダメだったらまた考える」
今のところそれしかない。
「それでは高橋様、目を閉じていただけますか?」
私はすぐに目を閉じた。気持ちが焦っている自覚があったので深呼吸をする。
いよいよだ。
どこに着くか分からないってことは、着いたらまずどこにいるかを確認して、展望台は入口からL字型になっているからまず弟が落とされた突き当りへ走る。あ、今パンプスだ、いや走るくらいできる。なんなら脱げばいい。弟がいたら声をかける。いや、周りに人がいないか確認して弟に近付く人がいたらそいつに声をかけて
「!!」
突然椅子が消えて尻餅をついた。
反動でひっくり返りそうになるのを手をつき体をひねって止める。尻も腰も手の平も腕も痛い!!
「お怪我はございませんか?」
「椅子が消えるならそう言ってよ!!」
怒りのままに声のした方に叫ぶ。
見上げると店主が青空をバックに微笑んで手を差し出していた。
青空。
見回すと野外、広場のような……展望台だ! 展望台の入口だった。
すぐ近くにある小さな建物、トイレ? の出入口に50代くらいの女性が驚いた顔でこちらを見ている。大きめのリュックを背負ったちゃんと登山の格好だ。
首を巡らすとその反対側にもリュックを背負った若いカップルがいて、柵に寄りかかりながら片手にスマホを持って腕を伸ばす自撮りの格好のまま私を見ていた。
叫んだことを恥ずかしく思いながら立ち上がる。ストッキングが破れていたがそれどころではない。
上着のポケットからスマホを取り出して時間を見ようとしたが画面が真っ黒だった。ボタンを押しても反応はない。今の転倒で壊れた!?
いやそんなことより弟だ!
私は何か言いかけた店主を無視して展望台の奥へと走る。
突き当りの柵の所に男が一人……弟だ! 間に合った!
足元に大きなリュックを置き、こちらに背を向けスマホを構えている。落ちる前だ。
ええと、まず何をしようと思ってたんだっけ。
近付くのをやめもう一度見回す。
弟の近くには誰もいない。
さっき見た中年女性は同じくらいの歳の男性とまだトイレの前にいた。夫婦でトイレを使っていたのか。ふたりで何か話している。
カップルはさっきと同じ場所でふたりとも私を見ていた。
店主はゆっくりと近付いてくる。
弟に一番近いのは私だ。他に誰もいない。今いる彼らが突き落とす様子はない。突き落とした犯人はこれから現れる?
展望台の入口はひとつだ。
私は戻ろうと踵を返すと店主は私の背後を指差した。
私はもう一度弟を見る。
弟は柵から身を乗り出し下を覗き込むような体制で片腕を伸ばしていた。
「危ない!!」
なんて体勢をしているんだ!
入口に戻ろうとした体を捻って弟の元に走る。
弟の名を呼ぼうとした瞬間、目の前で弟の姿が消えた。
伸ばした手が空を切る。
「嘘でしょ!?」
勢いあまって柵に激突しながら下を覗き込む。激突の反動で落ちそうになるのを柵を握りしめて耐える。
5メートルほど下、少し平らになった所に咲いている花に埋もれて弟は倒れていた。呻きながら身じろぎしている。
誰も弟の近くにいなかった。突き落とされたんじゃない。今のは本人の不注意だ。
じゃあ、
私が見た腕時計の記憶はなんだったの!?
混乱する私の後ろで、店主の落ち着いた声が聞こえた。
見ると、トイレの横の公衆電話で電話をかけている。離れているので何を言っているかまではよく聞こえないが、落ちた、という単語が聞こえた。
通報したのは店主?
「だ、だだ大丈夫ですか!? 誰かが落ちたんですよね!?」
女性の声に顔を向けるとカップルの女性の方が横にいた。近付いてきたことに気付かなかった。私を支えるように腕をつかむ。
「し下の人、い、意識はある、みたい、知り合い、ですか?」
カップルの男性が下を確認して聞いてくるので頷く。見るからにおろおろしていた。
そして私も混乱していた。言いたいことが口から出ない。
足に力が入らなくなりしゃがみ込む。女性が支えてくれていたので尻餅をつくことはなかった。
少し視線を上げるとトイレの前で年配の女性が腰を抜かしていた。男性はそれに寄り添っている。
この場にいる全ての人がパニックだった。
「ねえこういう時どこに連絡すんの?」
「スマホ圏外なんだけど」
「この辺にお店とかないよね?」
カップルの声を聞きながら私は必死に考えていた。
弟は突き落とされていなかった。
通報したのは店主だった。
通報者は行方不明って、それは…
「高橋様」
店主の落ち着いた声が頭の上から聞こえた。
見上げて声をかけようとした瞬間、
視界が前転するようにぐるりと回った。
カットしましたが、高橋が持っていた鞄(50万円入り)は店に置いて行ってます。服装はオフィスカジュアル。
カップルがずっと見ているのは服装のせい(そんな服装じゃここまで登ってこられない)なんですけど、高橋本人は気付いていません。