Ⅵ 帰郷
リュウの蒼い瞳が、ぱちぱちと瞬いた。
「帰る?」
「はい、そうなんで」
灰色のネーラは頷いた。相変わらず訛りが強い、独特の喋り方である。
「そろそろ親が心配してると思いまして……思った以上に、時間が掛かりすぎてしまいましたです」
それもそうか、とリュウは納得する。どこの国だろうがどんな種族だろうが、子供が異国へ赴けば親が心配するのは当たり前だろう。
壁の時計を確認する。いつも通り朝の稽古を終え朝食を済ませたばかりなので、まだ九時前だ。
「発つのはいつ? ちゃんと送り届けるよ」
「ほ、ほんとです? いやぁ、結構遠いもので、出るなら早めに今日のお昼にはと思っていたのですが……助かりますです」
「お互い様さ」
「え?」
「イージは俺に会いに来てくれた。俺は自由に出歩けるわけじゃないけど、お前のことはきちんと故郷まで見送る。それだけしかしてやれないから」
「リュウ様……本当に、お会いできて嬉しかったです」
イージは恩人の真摯な言葉に、少し眼を潤ませた。
――駄目だ、言えない。
リュウはぐっと拳を握った。申し訳なさと悔しさで、涙が出てきそうだった。
だけど、言わなければ。伝えなければ、きっともっと苦しむ。
「イージ……最後に、ひとつだけ」
「はい、何でしょう?」
「俺、お前に謝らないといけないことがある」
「リュウ様が、おいらに?」
「そう」
頷く。膝を付いて屈むと、イージの顔を覗き込んだ。
「俺はあの時、魔法を掛けた。延命の魔法を」
「そのおかげで、おいらは生き延びたのです」
「そうかもしれない。でも、いけないことだったんだ」
「……え?」
「俺は自分の意志で、イージの病気を治してやりたいと思った。その結果――魔導書の掟を破ったんだ。その代償がある」
「ダイショウ?」
「術者と共生することになるんだ」
「それは、どういう」
「道連れなんだよ」
彼は感情を押し殺すように、掠れた声で呟いた。
「運命を共にしないとならない。つまり、俺が死んだらイージだって死ぬ」
その事実に驚きを隠せなかったイージだが、
「リュウ様、その逆はあるんで?」
と訊いてきた。若き王子は耐え切れずに、眼を逸らすと俯く。
「逆は……ない」
正直に言うしかなかった。皮肉屋で口は悪いが、彼は嘘の吐けない人間だった。
「術者は魔法に縛られないんだ。俺の生死にイージが左右されるってことだから……」
ふっと頬っぺたを緩め、イージが笑う。
「なら、いいです」
リュウは顔を上げる。
「もともとリュウ様がくれた命です。ですから、そのくらいのことは何の問題もありません」
「イージに命をくれたのは、俺じゃなくてイージのお母さんだよ」
「あぁ、それもそうです。じゃあこの命は、第二の命ってことにしますです」
「え?」
「はい。第二の人生、とでも言いましょうか。とにかくおいらはこの世で二度、生を受けたわけでしょう? 一度目は死にかけましたが」
なので、と続けるイージの声は明るかった。
「第二の人生くらい、誰かと一緒に生きたっていいじゃないですか」
イージの故郷であるウカラ大地へは飛空艇で向かった。リュウの魔法で移動すれば一呼吸する間に到着するが、魔法の苦手なネーラ族には不向きである。
所々に水溜りのある大地に足を付け、イージとリュウは向き合った。リュウの傍らには同行した騎士アルスもいる。
「何から何まで、お世話になりましたです」
また頭を下げようとするイージに、リュウは首を振った。
「いいってそんな。俺にできるのはこのくらいだし」
「いえ……欲を言えば、是非とも家族に会っていただきたかったんですけど、そうもいかないですよね」
「私用で国境を跨ぐのはあまりよろしくないからね。まあ、いつか俺が王子をクビになったら、好きなだけ会えるけど」
「……やっぱり、リュウ様はちょっと捻くれてるんで?」
「こーいう性格なの、気にすんな」
隣でアルスがおかしそうに笑っている。リュウは気持ちを切り替えるように、それはそうとと晴れやかに笑った。
「身体に気を付けて。悪戯はほどほどにしときなよ? あと、何かあったら俺にご一報どうぞ」
「ご一報って、おいら、リュウ様にどう連絡すればいいんで?」
「簡単さ。手紙を入れた封筒に『空の国の第二王子へ』って書いとけば確実に届くから。あっ、切手は要らないからな」
「待ってくださいそんなテキトウな宛名でいいんで? ほんとに書きますよ?」
「こんなテキトウでも何とかなるのが王子の特権なんだ。とことん利用しないと勿体ないじゃん。もちろん俺の名前書いてもいいけど、本名だけは絶対やめてね、捨てるから」
「わ、解りましたです」
すうと風が吹いた。ちょうど、二人と一匹の間をすり抜けるような、やんわりとして冷たい風だった。
鎧を着ているにも関わらずほとんど音を立てずに、アルスが一歩リュウへ近付く。
「リュウ様、そろそろ」
「あ、うん。そうだね。それじゃあ、イージ」
王子は身を屈め片膝を付くと、右手を差し出した。銀色のリングが目に付く。
イージの小さくて毛に覆われた手を握る。冷たい地面に直に立っているのに、その手は結構暖かかった。
「ありがとう。救われたのはお互い様さ。俺も、イージに救われた」
イージは瞬きをした。目の前のリュウの表情が、一瞬だけひどく辛そうに翳った気がしたせいだ。
だがリュウはもう笑って、
「手紙、書いてね。どうせ暇だろ?」
などと言っている。イージはむっと頬を膨らませた。
「おいら、リュウ様が思ってるほど暇ではないですよぅ」
「これは失礼。じゃっ、暇ができたら書いてよ。合間を縫って必ず返事するから。イージ、自分の住所書くの忘れるなよ?」
「解ってますよぅ」
「よろしく。待ってる」
リュウはどこか嬉しそうに頷く。それから右手を左胸に当て、丁寧に頭を垂れた。本人はさらりとやっているが、その優雅な手付きはそうそう真似できるものではなかった。イージは思わず口を閉じてその仕草に見惚れる。
「遥か遠く、空の国からあなたにクラヴェスの加護がありますように」
イージには聞き覚えはなかったが、この言葉はルウ王国の王族が別れ際に使う言い回しであった。
顔を上げ、蒼い瞳が現れる。海のように深く空のように蒼い瞳だ。
「またね、イージ」