Ⅰ 鬼役は?
「それは困りましたわね」
全然困っていない口調でそう言ったのは、メイドのリイであった。これは彼女のお決まりの台詞なので、なおさら物事の真剣味に欠ける。
「王宮の中で見つからないのなら、地下で迷っているのではありませんか? ネーラ族は暗い所を好みますゆえ、うってつけの場所ですわ」
それはない、と皺ひとつないローブを纏った眼鏡の男が否定する。
「我々が、あらゆる魔法を使っても発見できなかった。ホコリひとつ逃さない探査魔法だったのに、なぜ……」
「オーヴァ様の潔癖には、このリイも感服していますわ」
と、彼女は肩をすくめた。もちろん、半分冗談である。
「今日一日、やけに王宮が騒がしいと感じておりましたが、まさかイージが関わっているとは。地下牢に入っていたのではありませんか?」
「そのつもりだったんだが、どうも、隙を付いて逃げたらしい。すばしっこさだけはこちらも敵わないからな」
リイは考え込むように顎を引いた。
「ですが、牢に入っていれば天敵からも逃れられますし、一応食事も出ます。イージのように名を知られている悪戯っ子には変な話、安全です。それにもかかわらず逃げ出したというわけですか……」
すると、二人の背後でくっくっと笑いを押し殺した声が聞こえた。
「夜も遅いというのに、揃いも揃って難しい顔をしているのか。眉間にシワが寄っておるぞ」
振り返ったリイとオーヴァが、揃ってこの国の王を見る。
「ローキィ陛下」
「父上」
今日一日、隣国に会合に出掛けていたローキィは、鮮やかなブルーの正装だった。彫りの深い顔立ちにシワが目立つ。疲れているらしい。
彼は椅子に座ると、年老いた君主に忠実にくっ付いていた臣下を下がらせた。
「お疲れのようですわ。お休みになった方がよろしいかと」
「ふむ、リイまで私を年寄り扱いするようになったか。たった一日で、そんなに老け込んだかね?」
「彼女の言う通りだ、父上。その、報告なら翌日でも構わないが」
時間はすでに、夜の十一時を回っていた。
「いや、今がいいだろう。オーヴァ、お前が焦る気持ちは解る。イージのことだからな、捕まえるのは容易いことではない。だからと言って殺めるわけにはいかん。そこで、魔力で成り立っている我が国が保護しなければ、魔法でしか捕獲できないネーラ族を野放しにしてしまうことになる」
平坦で穏やかな声だが、ローキィの口調はいつも威厳たっぷりである。さすがの国王陛下だ。
「では、あのネーラがいなくなったいきさつを、報告してもらおうではないか」
微笑を浮かべ、彼は息子に言う。
かいつまんで説明すると、こうだった。
牢に入っていたイージは、お昼のエサを持って来た牢番の足元をすり抜け、魔力の薄れていた王宮内を突っ走り脱出した。
「先ほど調べた結果、今日の王宮は穴だらけでした」
オーヴァは片手で眼鏡を押し上げた。
「もしや、修繕工事が必要か?」
「そうではありません。隙だらけという意味です。父上、あなたがいらっしゃらなかったものですから、魔力が上手くコントロールされなかったのでしょう。監視、探査、脱出阻止といった警備魔法が、ダダ洩れだったのです」
「なんと、水道も管理し直さなければ……水路は大丈夫か?」
「だからそうではなくて……とにかく、水道の問題ではありません」
いつの間にか淹れたお茶をローキィの前に置くと、
「牢屋にも魔力が流れておりますが、あの時は相当弱まっていたのでしょう。イージが何の罠にも掛からず通り抜けられたのですから」
こともなげにリイは言い放った。
その言葉に、黄金色の瞳をした老人は力なく笑う。
「そうであろうな……どうやら、私は自分で思っていた以上に年を取っていた。あの悪戯小僧をとっ捕まえるには、ちと重労働だ」
カップから立ち上る香りを、ローキィはゆっくり吸い込んだ。
「――追いかけっこは、若いのに任せようではないか」
「追いかけっこだって? 冗談じゃない」
と、すたすた歩いて行ってしまう王子の後を追いかけるアルス。
「ですが、リュウ様」
「俺しか適役がいない、って言うんだろ。解ってるよ」
そこで彼は急に立ち止まる。アルスはもう少しでその頭に胸を突っ込むところだった。いきなり止まらないでください、という言葉を呑み込む。
若き王子は振り向き彼を見上げると、唇を歪めた。
「でも、ホントに面倒な仕事だね」
この口の悪さ、筋金入りの皮肉屋。綺麗に整った顔立ちからは想像できないほど、性格は一筋縄ではいかない。
王宮騎士団副団長であるアルスは、彼とは十六年の付き合いになるが未だにこの毒舌には慣れなかった。的確に痛いところを突いてくるあたり、ある意味でいい性格の悪さをしている。
「というかそれ、追いかけっこなんてする必要なくない?」
「……と言いますと?」
「放っておいてあげる、って選択肢はないの?」
「残念ですが、それはありません、リュウ様」
「冗談だってば。カッタイなあ」
ひらひらと片手を振る。
「いきなりアーロに行けって言われてもさ。あそこ、魔力が全然ないから行く気がしないんだよな」
「だからこそなのです。魔力が存在しない国でも魔法を使えるのは、ローキィ陛下とあなた様しかおられないのです」
いくらなんでもネーラの子供一匹の捜索に、国の主を向かわせるのはまずかった。
「アルス」
「はい」
「面倒は面倒だけど、断ったりはしないよ」
リュウは安心して、とばかりに片手を振る。皮肉ばっかりでわがままなところもあるが、根は優しいのであった。期待通りの言葉に、アルスもほっと息を吐く。
「アーロには私も同行いたします。リュウ様に負担はなるべくかけさせません。まあ、いくら足の速いネーラと言えども、魔法を使う人間には敵いませんよ」
「だから、俺は追いかけっこなんてゴメンだからな。一緒に戻るかって訊いて嫌だって向こうが言ったら、何をするか解らないけど、止めないでね」
もう一度言おう。彼は、皮肉ばっかりでわがままなところもあり、根は優しいが結局口は悪いのだった。
その日の夜。夕食が終わるとすぐに、明日の出発に備え王子の部屋にリイがやって来た。
ネーラ族と呼ばれる種族の子供が逃げ込んだのは、大陸アーロ王国のとあるアカデミーだという。
「どうしてそんなこと解るわけ?」
リュウの問いに、リイはさらりと答える。
「アーロ王国から連絡があったのです。国立アカデミーで目撃情報があると」
「それで、ネーラのガキを取りに来いって? ラージくんだっけ」
「イージです、リュウ様」
「あぁそうだっけ。にしてもまさか、真下の国まで行く羽目になるなんてね。だいたいそのネーラだって、ここの牢屋を飛び出してどうやってアーロまで辿り着いたんだよ。ルウは空に浮かんでるんだぞ」
「それが解らないのです。しかも、イージが脱走したことは公にはなっていません。ですから、ご自分でお訊きになってください」
「ジョージくんに?」
「イージです、リュウ様」
いつも冷静なリイは、にこりともせずに名前を訂正する。
しばらくしてリイが引き揚げた後、リュウはソファの上であくびをひとつ。手にしていた書類もテーブルに投げ出すと、ごろんと横になった。
「イージくんねぇ……何がしたいのやら」
翌日。国王ローキィは早朝、リュウを呼び出し、
「入国の目的はあくまでもアカデミーの視察、ということにしてある。ネーラ族がアカデミーにいると学生に知られたら大騒ぎだ。そして、よいか、くれぐれも関係者以外に身分を明かさないようにするのだぞ」
と、念押しした。
「解ったよ、ご心配なく」
「言葉遣いがなっとらんな」
「承知いたしました、陛下。ご心配には及びませんから、どうぞごゆーっくりお過ごしください」
皮肉たっぷりに言い直すと、若き王子は謁見の間を後にした。
「リュウ様、参りましょうか」
彼の後ろに控えている騎士のひとりが声を掛ける。屈強な鎧に身を包んだその男は動きこそきびきびしているが、穏やかに微笑んでいる。
「ふぅん、嬉しそうだね、アルス」
「そうでしょうか?」
「俺にはそう見えるけど」
「いえ、大したことではありませんが、アーロは私の第二の故郷なのです。生まれはルウですが、青春時代のほとんどをアーロで過ごしましたゆえ、記憶に強く残っております」
「真面目だなあ。それなら、もっとはしゃげばいいのに。俺は気にしないんだから」
「いえ、もう十分すぎるくらい浮き足立っております。それに、私に課せられた任務はリュウ様の御身をお護りすることですから、第二の故郷ごときで騒いではおられません」
騎士の鑑のようなその言葉にリュウは苦笑し、手を伸ばしてアルスのごつい肩をぽんと叩いた。
「この件が片付いたら、アルスが羽目を外せるにはどうすればいいのか考えておくよ」
一向はゲートの前まで来た。ゲートというのは、魔法によって移動する時に使われる部屋のことだ。部屋全体が塔のようになっていて、天井は高く床いっぱいに魔法陣が張られているのである。これを使えばものの二、三秒で好きな場所へ移動できてしまう、めちゃくちゃ便利なシロモノだ。
グレーの制服を着たメイドがやって来た。アルスの顔がぱっと明るくなる。
「これはこれは。リュウ様、リイ殿がお見送りに来られましたよ」
「リュウ様、少しよろしいですか?」
と、彼女は王子に近付く。白い手が伸び、彼の頬に触れた。
「な、なに?」
ちょっぴりどきまぎして訊ねるリュウに、リイは悩ましげな溜め息を吐いた。
「リュウ様」
「だから、なに?」
「一国の王子ともあろう方が、このような寝癖を御髪にこさえたままお出掛けになるのですか?」
自分の後ろの寝グセまで見えねえしってか俺はもともとクセ毛なんだよ、というのが第二王子の言い分であった。