Ⅴ 騎士として
「あんた、嘘吐いてるんだろ」
吐いてないと素直に答える。だが、相手は頑なに否定してきた。
「嘘を吐こうって意識してるわけじゃないってこと? じゃあ、思ってないんだ。心の中では思ってもないことを、口にしてる。そうじゃないの? それって嘘ってことだよ」
違う。すぐにそう言おうとして、どうしてかそのまま飲み込んでしまった。
思いはある。まったく虚無なわけではなかった。喜怒哀楽は確かに感じる。ただ、感情が言葉に入っていく前に零れ落ちていくことがあるだけだ。
「イオリ、あんたは、何を考えてるか解んない」
もうずっと昔のこと。その日、俺は初めてイトコに“あんた”と呼ばれた。
自慢ではないけれど、苦手な分野は思い付かない。嫌いなもの、ならあるにはあるが、できないことはないに等しかった。物心付いた頃から、あらゆる分野で「才能がある」と称賛された。
その元々あったらしい才能で、ある程度のことをこなせてしまえたせいもあって、情熱に乏しい性格だった。何かに対して本気で熱くなったことも、特になかった。おまけに理性的な性格でもあったから、例えば剣術の新しい技を巧く成功させたとしても、
「よしやったぞ、できた!」
とはならずに、
「なるほど、ここをこうしたからできたのか」
とまあ、感情より分析するのが常だったわけだ。これが、リュウには理解できないらしい。
だからなのかもしれない。勉強は自然と好きになった。知識を蓄え知恵を深め、見識を磨く。どれもやればやるほど身に付くものだったし、終わりが見えない。どんなにやっても足りない。限界がない。何より世界がどんどん広がっていく。楽しいし、面白かった。
――たったひとつ。どうしようもない、どんなに足掻いてもできないことがあった。
努力のしようもなく、まさになすすべもない状態だった。最初からできないことに苦手だとか得意だとか、そういった感情は出てこない。ただ、空っぽなんだと感じた。悲しいとも思えなくて、ただただ無力さを味わった。
そのたったひとつを、あいつは、生まれながらにして持っていたんだ。
***
私が騎士の称号を得て、ルウの王宮騎士団に入り、経験と実績を積むために日々鍛錬を行い王宮の警備を務めている間に、ルウ王国第一王子イオーリュス殿下がご誕生になられた。
だが、幼子の王子を一目見る間もなく、私は遠征に出掛けることになる。これまでの経験と実績が評価され、第一王子の実父オーヴァ様の弟君にあたる執政官ラウル閣下の護衛を任されたのだ。まさかこうも早く、王宮の警備から王族の護衛をやることになるとはと当時の私は緊張し、だが同時に誇らしくもあった。
現在の国王ローキィ陛下の孫となれば、次期国王の継承権が与えられる。そんな大層なお方に興味がないわけはなく、私はラウル閣下に訊ねたことがある。
「イオーリュス王子は、お元気なのでしょうか?」
「そりゃあもう、そうだろうな。私は、元気のない赤ん坊は見たことがない」
ぷっと吹き出すラウル閣下。当時まだ十七歳だった自分は、ざっくばらんすぎる質問だったなと恥ずかしくなった。
「父上が長い名前を付けたものだから、みんなで呼び名を決めたいなと思っていたところだが……シュクトール、君ならどうする?」
「わ、私ですか?」
「思い付かなくて困ってるんだ。試しに“いっちゃん”はどうかと提案したのだが、兄上にものすごい反感を買ってしまって」
そりゃあそうだろう。さすがに、いっちゃんでは呼ぶ側のこちらも困る。
「では、そうですね……」
そこで私は、ふと浮かんだ愛称を口にするのだった。
「イオリ様、というのはいかがでしょう、閣下?」
その遠征は三年に及び、私はめきめきと経験と実績を積み上げていった。
剣に棒、馬術に格闘技。王宮騎士団の昇格試験に必要な技量を身に付けるため、地理や語学といった学問も修める。剣術と馬術の段位も二つ上がった。ちなみにだが、今回は遠征といってもずっと任地にいるわけではなく、月に二回ほどは王宮へ戻ることもあった。解りやすいように言えば、単身赴任のような感じだ。
ラウル閣下の遠征は無事に終了した。護衛の我々も王都に帰還し、三年ぶりに騎士団宿舎での生活が始まる。その後ほどなくして、ラウル様の御妃であるミア様ご懐妊の報告を知らされてからも、私の生活は変わらず訓練の度に流す血と汗にまみれていた。
そんなある日のことだった。
「王子の護衛を頼みたい」
当時の騎士団長に呼び出しを受けた私は、そう命じられた。もちろん断る理由はないが、自分のような一般騎士に回ってくる話だとは到底思えなかった。
「王子のお顔をまともに見ていないのは、君だけだからさ」
こちらが訊きたそうな顔をしていたのか、団長はあっさり教えてくれた。
「ですが、そのような者は他にもおります。高等騎士でもない私が優遇されるのは――」
「みんなが納得してるんだ」
「納得、とは?」
「この王宮の者は、誰もが王子のことを“イオリ様”と呼ぶ。簡潔で綺麗な響きだ、私もいいと思う。それに、名付け親は子供に会うべきだろう?」
任せたぞ、と敬礼をする団長に、私も慌てて敬礼を返した。
こうして護衛をすることになったのだが、メイドに手を引かれて歩く王子を見て、私はすっかり度肝を抜かれてしまった。
「おおぉ」
まるで現実味のない、絵画の中からそのまま出てきました、と言われても納得してしまいそうなほどの愛らしさだった。まだ三歳なはずではなかったか、と暦を数える。三歳にしては整いすぎている。だけど横顔はまだまだ幼かった。
将来が楽しみだな、などと己の身分を弁えず思ったものだ。懐かしい。
それから四年後。
彼と初めて会話をした時のことは、今でもはっきりと覚えている。いや、忘れろという方が無理だ。
「おおお、おおおぉぉ……」
とりあえず、気を抜くと変な唸り声しか出なかった。よく覚えているとも。
周りの視線を釘付けにするほどのオーラを纏った美少年が、背丈に合わない豪奢な玉座に座っていた。こうして近くでその姿を見ることは滅多になく、強烈なオーラを放つ一方でどこか儚げな雰囲気もあることに、私は気付いた。
王子は七歳になっていた。艶のある手入れのされた美しい銀髪。彫りが深いわけではないが、鼻筋が通り目元には力がある。しかし睫毛の長さがその目元を幾らかやんわりと見せていた。王と同じヘーゼルの瞳が、かろうじて血の繋がりを意識させる。
顔立ちはまったく似ていない。が、一目で誰もが解るほど彼は完璧な“王子様”だった。
努力の甲斐あって高等騎士に昇格した私は、それまでの経験と実績を買われて第一王子の側近に任命されたのだ。ちなみに第二王子であるリュウ様は、この時はまだ皮肉屋の欠片もない四歳である。
「国王ローキィ陛下から、王子の側近の任を仰せつかりました。王宮騎士団所属、高等騎士イルセグ・シュクトールでございます。以後、お見知りおきを」
玉座の前に跪いた私を見て、幼い王子は口元に笑みを浮かべた。
「どうぞよろしく、シュクトール」
よく通る涼やかな声。予想していたより温かみはないが、柔らかい声音だ。
「剣にかけて、忠誠を誓います。イオーリュス殿下」
儀式が終わってから、彼は私にそっと耳打ちした。
「イオリでいいよ」
あれから十二年が経った今も、私は彼の側近を務めている。この間に起こった出来事の中でも、私が最も印象的に残っていることをこれからお話ししよう。
***
第一王子の生活は忙しい。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
こちらを向いてきっちり挨拶をする姿勢は、七歳の頃から健在だった。
私は六時に起床し七時前には朝食を済ませていた。騎士団に身を置く者は宿舎で生活をしているため、このスケジュールが狂うことはほぼない。
側近といっても私は騎士であるから、王宮内をメイドや侍女のように始終くっ付いている役割ではない。もちろん護衛はするが、魔法で守られた王宮ではさほど厳戒になる必要はないのだ。
「今日は外出の予定はないけれど?」
と、イオリ様は首を傾げる。朝食から戻ってくる時間だろうと思い、私は五分ほど部屋の前で待っていたのだった。
「少々お時間を、よろしいでしょうか?」
「うん、大丈夫。入って」
メイドが部屋の扉を開け、彼は中に入る。私も続いた。
部屋に入ったのは初めてだった。広いのは当たり前だが、本の数がとても多い。図書館なのだろうかと勘違いする人がいそうなくらいだ。
「何か用事が? シュクトール」
メイドを下がらせ、肘掛け椅子に座ったイオリ様はまた首を傾げた。
私は膝を付き、稽古の件ですが、と切り出した。
「ローキィ陛下に仰せつかり、今後は私が稽古事を一任されることになりましたので、ご報告申し上げます」
「剣と馬術のこと?」
「いえ、学問と魔術以外は、すべて私が担当させていただきます」
「そう。解った」
あっさりとした返事が返ってくる。よろしくお願いいたします、と頭を垂れると、彼はふうと息を吐いた。
「大変じゃないと思うけど、頑張ってね」
「……と、いいますと?」
「僕のスケジュールを見たことある?」
私は言葉に詰まりつつ、頷く。彼は長い睫毛を伏せた。
「ほとんど座学だったでしょ。稽古だって、シュクトールがやるのは剣と馬術だけだ」
イオリ様は七歳にして、ずば抜けて高い知能の持ち主であった。飛び級をして高等部から入学しないかという誘いが、各地の最高ランクのアカデミーから来るほどだ。しかし私が返答に迷ったのは、座学と稽古の割合に驚いたからではない。
彼のスケジュールを初めて眼にした時、私は驚きを通り越して寒気がした。いくら優秀でも、身体はまだ子供のそれだ。生まれてから十年にも満たない、華奢でふわふわとした曖昧な存在だ。それなのに、倍以上生きている私が悪寒を覚えるくらい綿密に組まれたスケジュールだったからだ。七歳の少年がそれをこなすのかと考えると、臣下の身でありながら同情してしまいそうになる。
「稽古は僕にとって重要じゃないらしいんだ。それに――」
王子は何か言い掛けたが、すぐに自嘲気味な表情でこう続けた。
「まあ、時間ならたっぷりあるから、好きにして」
自由時間などほぼなかっただろうに。彼がどこか暗い表情をする理由は、その時の私には解らなかった。
私は深く一礼し、人形のように綺麗な顔を視界から外した。このままその顔を見ていたら、余計なことを口走ってしまいそうだった。
イオリ様の稽古をしているうちに、新たに解ったことが二つある。
寸でのところで左足を引く。一瞬体勢が崩れた私の懐に、イオリ様が畳み掛けるように飛び込んできた。
私は剣を下げた。刃を潰して切れなくしてある練習用の物だ。
「殿下、お上手です」
まずひとつは、とても飲み込みが早いことだ。完璧に真似を覚え、上達が早い。剣術をやり始めたのはつい半年前くらいだと聞かされていたが、なかなか才能がある。
「敵の懐に飛び込むには、それなりの勇気が必要です。剣を始めてまだ日が浅い者は、大抵は尻込みをするか、剣に頼り切りになってしまうのですが――その点、殿下はご心配ありませんね」
まだ耳が隠れるくらいの長さしかなかった銀髪を軽く振って、彼は剣を鞘に納めた。
「シュクトールはよく褒めるね」
「褒めるに値する出来栄えだからでございます」
一礼し、この辺で終わりにいたしましょうと言った。
「夕方に、お部屋までお迎えに上がります。お召し替えをしておいてくださいませ。馬は他の者に用意させておきますゆえ」
「解った、ありがとう」
二つ目は、馬術の稽古で知ることになる。