Ⅲ 新米メイド
こんにちは、初めまして。わたしはディシアと申します。つい一ヶ月前、十八歳になりました。
わたしの職業は――えっとその前に、ここルウ王国では十五歳までが義務教育になります。ですが多くの人は、その後二年ほど専門分野を学んでから職に就きます。わたしもそのひとりで、アカデミーを出てから使用人養成所に通いました。理由は入学試験に受かったのと……第一志望だったベビーシッター養成所に落ちたからです。
赤ちゃん、お世話したかったなあ。
「――それから、二階の別棟廊下は、ディシアさん」
「え? は、はいっ」
清掃作業のリーダーであるベテランメイドさんに言われ、慌てて返事をする。メイドの中で一番下っ端なわたしは大抵最後に呼ばれるのですが、今日はいつもよりタイミングが早いです。そろりと周りを見回すと、あれ? ちょっと人数が少ないような気が。
リーダーさんが締めの挨拶をしたところで、朝のミーティングが終わる、かと思いきや。
「ちょっとよろしいですか」
凛とした声が響いた。背筋が綺麗に伸びた、プラチナブロンドが見事なリイさんだ。
「ディシアさん、今日はわたしが一緒に付くから、王子お二人の部屋を掃除しましょう。別棟の廊下は、代わりに二階担当者が掛け持ちしてもらえないかしら」
この言葉に、マスクをした先輩のメイドさんたち(特に若い人)の間を流れる空気が、一瞬ぴりっとしました。緊張からか手汗が気になり、思わずスカートの裾を握ってしまいます。
そんなわけでわたしは現在、ルウ王国の王宮専属メイドであります。入って一ヶ月、ド新人です。よろしくお願いします。
「リ、リイさん……わたし、まだほんの一ヶ月しか」
そうだったわね、と返ってくる。
「あなたも知ってると思うけれど、ここ最近、使用人の間で風邪が流行ってるのよ。王子にうつしたら大変だし、あなたなら同室の子もいないでしょ?」
「は、はい」
ほとんどのメイドさんは住み込みで働いていて、王宮に繋がる別棟に部屋があります。わたしのような新人下っ端は二人部屋なんですが、たまたま人数の関係でシェアする人がいなかったのです。
ちなみにリイさんはメイドを束ねるリーダーで、ボーイのトップと並んで使用人全員の上に立つ方です。ですがもっとすごいことに、彼女の本業はあの王子お二人の側近なんです。王宮に勤め始めたばかりの頃、庭師のおじさんに、
「『それは困りましたわね』が口癖の若いメイドがいる。だが言葉に騙されずに、何か困ったことがあれば彼女に相談するといい」
と言われたことがあります。
二階の別棟から移動しわたしたちがやってきたのは、本館(使用人居住区である別棟と区別するために、王族の方々の居住スペースのことをこう呼んでいるんです)の広い廊下です。別棟の廊下とは違い、とても華やかな雰囲気が漂っています。通路に敷いてある金色刺繍の織物のせいかしら? それとも壁と柱に彫られているお洒落な模様?
そのちょうど真ん中あたりまで来ると、わたしとリイさんは向き合う。
「少し訊いておきましょう。ディシアさん、あのお二方――イオリ様とリュウ様にお会いになったことは?」
「いえっ、とんでもありません。それどころか……お見かけしたことすらないです」
別に珍しいことではありません。王宮内で働いてると言っても、メイドや使用人は一般市民です。王宮騎士団の中には貴族の方もいらっしゃいますが、貴族と王族の間にはとても大きな“越えられない壁”があります。そんなわたしにとって王子様方は、下手したら一生目に掛けることもできないような、雲の太陽の宇宙の上の存在です。
「無理もありません。まあ、問題ないとは思うけど。見た目だけは本物の王子様だから、あなたにも解るでしょう」
リイさんは大きな扉の前に立った。上を見上げるくらい大きい扉。この部屋は、いったいどちらのなんでしょう……?
「あら、困ったわね、そんなに緊張しなくてもいいわ」
ふいにリイさんが笑う。
「最初は、超多忙な第一王子のお部屋です。この時間ならもういらっしゃらないわよ」
そう言うと、ノックもなしに扉を開ける。スケジュールを把握しているあたり、さすがは世話係兼教育係。わたしなんて、ここに来るまでの道のりをもう忘れました。
腕時計を見る。時間は朝の七時過ぎ。えっ、王子様ってこんなに朝早いの?
結論から言います。ラクでした。
「すごく広いお部屋なのに、すごく綺麗に片付いてますねえ。ありがたいです」
埃の掃除を終え、開けていた窓を閉めながら、わたしは感嘆していました。
「物は多いけど上手く片付いてるでしょう? 昔からそうなのよ」
「なんだか書類がとても多いようですけれど、全部第一王子が書かれたものなんですか? 活字じゃなくて手書きだったので、珍しいなと思いまして」
「そうよ。ほとんどが学会で発表する論文ね」
「学会……ろんぶ、ん?」
「そうだわ、イオリ様は今晩晩餐会に出席されるから、礼服を出しておかないと。ディシアさん、姿見の右にあるクローゼットから、ホワイト・タイを出して」
「は、はいっ」
よーし、研修で学んだことが今活きるわっ。では復習がてら説明しましょう。
ホワイト・タイとは燕尾服を着る時のドレスコードです。世界各国で最上級の礼服とされており、燕尾服には白い蝶ネクタイを合わせることになっているため、ホワイト・タイと呼ばれます。ルウ王国では王族の正装となれば鮮やかなロイヤルブルーのローブですが、晩餐会は儀式ではなく行事なので礼服になります。
うん、完璧よね。えっと、どれどれ。
「うううう、どれだ……っ」
多い、多いよ。ホワイト・タイだけで十着以上ある。
「さすがは王子様……」
そうだった。このルウ王国第一王子イオリ殿下は、全世界の老若男女(つまりは全人類)から信頼を得ている超有名雑誌の特集『世界の美しい王子様』のナンバーワンに選ばれたって、養成所の友達が言ってたっけなあ(ちなみにあの雑誌、色んな国の言葉で翻訳されてるから、ほんとに全人類向けなんです)。
「イオリ様は礼服の数がものすごく多いの。見れば解るけど、迷うくらいどれもお似合いだから」
おろおろしていたわたしの隣にやって来たリイさんは、素早くホワイト・タイ一式を眺め、
「これね」
ものの三秒でお目当てを探し当てた。
お次は、向かいにある第二王子のお部屋です。
「さて、リュウ様の欠点は色々ありますが」
と、切り出すリイさん。
「中でも厄介なのは、口の悪さです」
「そ、そうなんですか?」
わたしは仰天する。それには理由があった。
「全人類から信頼を得ている某有名雑誌には、天使のような人だと書いてありました。あの笑顔がたまらん、ってコメントがあって」
「あら、それは困りましたね」
「え?」
「あの方は悪い人ではないけれど、愛想がないの……だから人前に出る時は猫被ってるのよ。それはもう上手に隠しているけれど、本当は頑固で気分屋で照れ屋で、とても不器用な人」
悪戯好きの子供を語るような、柔らかい口調だった。リイさんが王子のことを、まるで家族のように想っているのが解る。
「リュウ様は天使ではないし、生身の人間よ。もちろんイオリ様もね。ディシアさん、それだけは覚えていてもらえるかしら」
「……はい、もちろんです」
しっかり頷いたわたしに、リイさんはにっこりと笑った。
「それじゃあ、始めましょう」
結論から言います。散々でした(色んな意味で)。
新人のわたしは、比較的簡単な洗面台を任されました。リイさんはてきぱきと、ひろーい書斎や寝室スペースをお掃除。そのスピードは、残像が見えそうなほどです。
水道周りを磨き、ゴミを拾い、コップも洗って拭いてタオルをセットして、なんとか片付けていきます。
よし最後は鏡を、と顔を上げると、どこまでも蒼い瞳とばっちり眼が合いました。
「ひいいいぃぃぃ」
「ちょ、うわあああっ」
あまりの驚きに腰を抜かしてしまい、持っていた鏡用クリーナーをぷしゅっと。泡で出るタイプです。ものすごい勢いで泡が出てきました。
「おいっ……っぷ、何すんだっ」
「ひいいいいぃぃぃっ」
「ディシアさん?」
声を聞いてリイさんが駆けつけてきます。
「まあ、リュウ様、どうしてここに?」
こっちの台詞だ、と彼は言い、顔にかかった泡を手で拭っている。
「うー……眼に入った」
「すぐに洗い流してください。ディシアさん、クリーナーから手を離してそこをどいてちょうだい」
わたしは返事もできずに、言われた通りにしました。
……あのう、リイさん、さっきリュウ様って言いました?
ああぁ、わたしは第二王子に、なんっってことを――
「ああもう、解ったよ。新人さんなんだろ」
結局シャワーを浴びたのか、リュウ王子はもこもことバスローブに包まり、マグカップに口を付ける。中身は、リイさんが淹れたコーヒーです。
「も、もう、も……申し訳ありません」
わたしはただ頭を下げることしかできない。まともに顔も見れない。
「別にいいって、失明したんじゃあるまいし」
冗談なのに笑えない。なるほど、もしかして、これが皮肉屋だと言われる所以なのだろうか。
「だからもう、顔上げてよ」
ぺこぺこされるのは大っ嫌いなんだ、と呟く。わたしは慌てて、やっとこさ姿勢を正した。
そして、初めてその顔を見る。
「おぉ」
もっと良い反応がなかったのかと自分でも恥ずかしくなったが、漏れてしまった声は仕方ないでしょう……そう、正直言うと、意外と可愛い顔をしていたのだ。女のわたしから見ても、下手な女の子より可愛いとさえ思ってしまうほど。はっきりして整っているけど大人びてはいない、年相応な感じです。しかも今は髪が濡れてちょっと長めに見えるせいか、どことなく中性的な雰囲気があるような。それにしても眼が綺麗だ。強い光を宿した大きな眼。
その蒼い瞳が、ぱちりと瞬く。何故だか、向こうもちょっと驚いていました。
「……意外と若かった」
「彼女は一ヶ月前に入ってきたばかりなので、養成所を卒業して間もないはずですわ。そうよね、ディシアさん?」
リイさんの言葉に、わたしは頷く。
「は、はい、そうです。ちょうど一ヶ月前に、十八になりました」
「えっ、十八?」
「あら、リュウ様とそれほど変わりありませんね」
と、リイさんは可笑しそうにしています。
「歳の近い女性には、慣れていらっしゃいませんものね」
「……うるさいなあ」
きっとリイさんを睨むけれど、その顔は赤くて……なんか、意外と初心なのでしょうか? 正真正銘の王子様なのに、そんな雰囲気もあまりないと言いますか……あっ、これは悪口ではありませんよ! 良い意味で、です。
また、眼が合いました。
「あんたも笑うなっ」
ええ、解りました、リュウ様。あれ、ほっぺが緩んでるぞ、わたし。
――ベビーシッター志望だったわたしだけど、王宮専属メイドも悪くないかもなあ。
「ちなみにリュウ様、どうしてお部屋に戻ってきたのですか? わたしの記憶では、この時間のあなたのスケジュールは棒術の稽古のはずですが」
「……それはおかしいなあ、俺の記憶では自習だったんだけどなあ」
「サボりですか」
「待って待って冗談だってば。話を聞いてくれない? 今回はサボりじゃなくて、不可抗力。ちょっと本気出してぶん殴ったら、シュクトールの棒が折れたんだよ。だからさ」
「替えの棒はたくさんあるはずですが?」
「いやあ、よほど気に入ってた棒だったんだろうね、真っ二つの棒を握りしめたまま呆然としてたから、そのまま抜けてきちゃった」
コーヒーを飲み干してから、第二王子はぺろりと唇を舐めた。顔がにやけている。
「ね、不可抗力でしょ?」
「それは困りましたわね。わたしにはそれは不可抗力ではなく、確信犯という言葉がぴったりだと思えますけど」
「ショックを受けてるシュクトールに、俺なりに気を遣ったんだよ。俺の稽古のことはいいから、折れた棒の供養でもしてあげて、ってね」
ディシアさん、と王子の世話係兼教育係のメイドは新人の名を呼んだ。
「これでお解りでしょう。これが第二王子の厄介なところです」
「は、はい」
「いくら可愛い顔をしていても、口から出てくる言葉が可愛いとは限りませんからね。よく覚えておいてください」
「解りました。わたし、毎日復唱します」
「あのさああんたら本人を目の前にして失礼じゃない? あとそこ、復唱しなくていいから。覚えなくていいからな」
こんなことを言っているが、実はこの王子が初対面の人間にここまで砕けているのは、相手を気に入っている証拠だ――ということを、もちろんリイは解っているのであった。