★☆★第1夜★☆★ 靴磨きの少女・アダ
毎年、クリスマスの日に1話ずつ更新していきます。
第1話目です。
昔、フィンランドの田舎町に、小さくて痩せ細った少女がいた。名をアダという。彼女の家は貧しく、毎朝夜明け前には家を出る。その小さな手には、仕事道具と、手のひらに収まるほどの大きさの木製の置物がいくつかと、かたい黒パンが2つにミルクとが入った籠を携えていた。
アダは、毎朝2時間かけて都会まで出てくる。街に着く頃には、太陽はすっかり顔をのぞかせていた。アダは、雪の積もった路地の一角を借りて仕事道具を広げた。
「靴を磨きます。お勤め前に綺麗な靴で出かけられてはいかがですか?」
そう声を上げると、ひとり、ふたりと、アダの方に寄ってくる。
「やあ、アダ。おはよう」
「おはようございます」
「今日も頼むよ」
「はい」
アダは早速、男性の高価そうな革靴に手を伸ばす。そして、それを隅々まで丁寧に磨き上げた。
「うん、綺麗になった。これなら、今日の商談もうまくいきそうだ」
そう言いながら、男性はアダの手の中にいくつかのコインを握らせた。
「え…あの、少し多いですよ」
「いいさ、今日はクリスマス・イブだからね」
「…ありがとうございます」
「ところで、その籠に入っている木彫りの人形はなんだい?」
「あ、これは母が彫った置物です」
「売り物かな?」
「はい」
「それはいい。ひとつおくれ。その馬型のがいいな。娘はお馬さんが大好きなんだよ」
そう言うと、男性はアダに向け、
「メリー・クリスマス」
との言葉を残し、賑わう街の中へと消えて行った。
その次にやって来た男性も、最初の男性と同じように多めに料金を払い、母が作った木彫りの置物を買ってくれた。
この2人は常連の客だった。見るからに裕福そうな格好の彼らは、本来ならばアダの靴磨きなど必要とはしていないだろう。だから、これは同情心に他ならない。彼らは、幼いアダが朝から晩まで寒空の下で働く姿を見て、同情していたのだ。
当のアダはといえば、それに気づいていた。アダは、同情されて喜ぶような性質ではない。だが、彼らは数少ない常連客だ。彼らの機嫌を損ねる言動をとるのは得策でないことくらい、幼いアダにもよくわかっていた。
2人の常連客のあと、ちらほらと訪れる何人かの靴を磨いた。だが、太陽が真上に差しかかろうとするあたりから、ぴたりと客足が途絶えてしまった。そこでアダは、靴磨きの道具を籠の中にしまうと、入れ替えに木彫りの置物を路上に並べはじめた。そして、持ってきたパンをかじり、ミルクをひと口飲む。その時、雪煙を上げて風が吹き抜けていった。アダは思わず首を竦める。両手を合わせてぎゅっと握りしめると、息を吹きかけた。一瞬だけは温まったものの、次の瞬間にはまた氷のように冷たくなった。寒さに食欲も失せたアダは、膝を抱えてしばらくうずくまる。
ふと、声が聞こえた気がした。
顔を上げて見渡してみるが、どこから聞こえたのかまるで見当もつかない。きょろきょろとしていると、またも聞こえてくる。人の声ではないようだった。
アダは、パンとミルクを籠に入れ、置物も全部しまい込む。そうして籠を持ち上げると、声の主を探して歩き出した。
どれほど歩いたのだろう。
アダは、汗ばんだ額を拭い、肩で息をする。気がつけば完全に街中から外れ、小高い丘の上にいた。
「なんで…?」
確かに声は聞こえ続けているのだ。だが、なぜか姿は見えない。
「どこにいるの…?」
白い息を吐きながらつぶやいた時、その声が耳元で聞こえた。反射的に振り向くと、そこには1頭のトナカイが立っていた。
「え…?」
先ほどまで誰もいなかったはずだ。突然の出現に驚きを隠せないでいると、トナカイがひと声鳴いた。それは、アダがずっと追ってきた声に違いなかった。
「あなた、だったの?」
尋ねると、トナカイはまたも鳴いた。
アダはトナカイを珍しがり、その頭に触れようと手を伸ばす。トナカイはおとなしく、目を細めてそれを受け入れた。アダは喜び、優しく頭を撫でてやる。その時、トナカイが俄に目を伏せた。そして、項垂れるように頭を下げたのだ。
「どうしたの?」
アダは、様子のおかしいトナカイが心配になり、その体を見て回った。
「あっ…」
アダは思わず声を上げる。トナカイの後ろ足からは血が滴り落ち、雪の上に赤い染みを作っていたのである。
「たいへん! 早く手当てしないと…」
アダは、首に巻いていた薄い布を外す。その瞬間、体から一気に熱が失われていくのを感じた。ひとつ身震いをすると、アダは唇を噛みしめ、小さな拳を握りしめた。そうして、凍えるような寒さに耐えながら、怪我をしているトナカイの足に布を巻き付けてやったのだった。
トナカイは、ぐうっぐうっと鳴きながら、鼻の頭をアダに擦り付けてくる。
「もしかして、お礼を言ってるの?」
尋ねると、トナカイはまたもぐうっと鳴いた。アダは嬉しくなって、トナカイの首に抱きつく。布を失って冷えていた首筋に温もりが戻ってくるようだった。
「私はアダよ。あなたは何ていう名前なのかしら?」
そう口にした時、
「コメット」
人の声が聞こえた。そして、その声に反応するようにトナカイが首をもたげる。
「コメット、いるのかい?」
だんだん近づいてくる声に答えるように、トナカイがぐうっと鳴いた。
「コメット?」
そうして顔をのぞかせたその人は、まだ20歳にもなっていないだろうと思われる若い青年であった。
「コメット、怪我をしているのかい?」
青年は、トナカイの後ろ足に巻かれた布を見て言った。
「君がコメットの手当てを?」
突然の来訪者に固まったままのアダに尋ねる。アダは、ただこくりとうなずいた。すると、青年は実に朗らかな笑顔を見せる。そして、かぶっていた赤い毛糸で編まれた帽子を脱いだ。美しい銀色の髪の毛が風になびく。
「コメットを助けてくれてありがとう」
「この子、コメットっていうのね」
コメットがアダに擦り寄った。
「随分と懐いたものだね」
「人懐っこいのね」
「いや、そうじゃないよ。コメットは生来気位が高くてね。僕以外には、なかなか心を許したりしないんだ」
「へえ、そうなの?」
「うん。君のことがよほど気に入ったみたいだね」
それを聞いて、アダは嬉しさに頬を赤く染めた。
「私もコメットのことが大好きよ」
そう言って、アダはコメットの首に抱きついた。
「それじゃあ、君に何かお礼をしないとね」
青年の言葉に、アダは首を傾げる。
「何がいいかな?」
「私、別に何もいらないわ」
「そうはいかないよ。だって、君はコメットにそのスカーフをくれたじゃないか」
「それはスカーフなんかじゃないわ。ただの布切れを首に巻いていただけだもの」
「首に巻いていたなら、それは立派なスカーフさ。それに、人に与えるのが僕の仕事だもの。君から貰いっぱなしにはできないよ」
「人に与える…? あなたはお金持ちなの?」
「どうかな? まあ、お金には困ってないけどね」
「ふうん。裕福な家の人なのね。趣味でボランティアでもしているのかしら?」
少し嫌味だったかと思い直し、訂正しようとアダが口を開きかけた時、
「僕の名前はニコラウス」
と青年が言った。
「ニコ…?」
「ニコラウス。言いづらかったらニコラでいいよ」
「ニコラ…」
「うん。僕はボランティアをしているわけじゃない。みんながサンタクロースと呼ぶ存在、それが僕なんだ」
ああ、この青年は頭のネジがどこかに行ってしまったに違いない…アダはそう思った。
「あれ? もしかして、僕のことをおかしな奴だと思っている?」
全面に出してしまっていたのだろう。そう問われたが、アダは答えることなくニコラに背を向けた。
「ちょっと待ってよ、アダ」
アダは立ち止まる。
「なんで、私の名前…」
「知ってるよ。だって、僕はサンタクロースだから」
「あなた、おかしいわ。そんなのいるわけないじゃない」
「どうして?」
「サンタクロースなんて、お金持ちの大人が子供を手なづけるために考えた空想でしかないのよ」
「君って、随分とひねくれた考え方をするんだね」
ニコラは苦笑をこぼした。
「今から子供たちにプレゼントを配りに行くけど、君もくるかい?」
コメットがいなくて出発できなかったんだ、とコメットの体を撫でながら言う。
「行かないわ」
アダはきっぱりと断った。
「あなた、怪しすぎるわよ」
「そう?」
「そうよ。自分がサンタクロースだなんて。もしそれが本当なら、どうして私の家には来てくれなかったの?」
「行きたかったよ。でも、行けなかったんだ」
「なんで? 私がいい子じゃないから?」
「まさか。君はいい子だよ。とっても。アダが頑張ってるのは知っているもの。でも、ダメなんだ」
「ウソつき!」
アダは、ニコラに背を向けると駆け出した。背後でアダを呼ぶ声が聞こえる。だが、アダが振り向くことはなかった。
丘を下り、街までの道を歩いていたアダだが、半分もいかないうちに力尽きてしゃがみ込んでしまった。それもそのはずである。昼食も摂らず、ずっと歩き通しだったのだから。おまけに、パンや仕事道具などの入った籠は、先ほどの丘の上に忘れてきてしまった。
「お腹すいた…」
つぶやいた時、
「はい、どうぞ」
パンが差し出された。それは、固い黒パンなどではなく、白くてふっくらとしたパンだった。アダは、思わずそれに手を伸ばす。だが、それを差し出した人物に目を向けると、パンから手を離した。
「もう、強情だなあ」
ニコラが困ったような笑顔を向ける。
「だって、私はあなたを信用できないもの」
「アダ…」
アダは頬を膨らませながらそっぽを向く。
「僕が君の家を訪れなかったのはね、君のお母さんが僕のことを信じてくれなかったからなんだ」
「当たり前よ。私だって信じられなもの」
「だから行けなかったんだよ。その家の子が信じてくれるのはもちろんだけど、親も信じてくれてないと行けないんだ」
「…なんで?」
「だって、気味悪がられちゃうじゃないか。どんなプレゼントも、きっと受け取ってもらえないもの」
そっぽを向いたままのアダに、ニコラは再度パンを差し出した。
「もう、機嫌直して受け取ってよ。お腹がすいているんだろう?」
その時、ちょうど良くアダのお腹が鳴った。アダは頬を赤くしながら、ニコラからパンを受け取る。ひと口齧った瞬間、ふんわりとした優しい甘さが口中に広がった。アダは、こんなに美味しいパンを食べたことはなかった。あっという間に食べ終えると、
「もうひとついかが?」
その言葉とともに、ニコラの手の中には先ほどと同じパンが乗せられていた。
「ニコラって、手品師?」
アダが尋ねると、
「だから、僕はニコラウス。みんながサンタクロースと呼ぶ存在なんだったら」
ニコラはまたも苦笑して言った。アダがパンを受け取ると、何もなかったニコラの手の中には新たにパンが収まっている。
「本当に、サンタクロース…?」
「そうだよ」
ニコラが笑った。
「それなら」
アダは、手の中のパンを握り締めた。
「お母さんの病気を治して」
だが、その言葉に、ニコラの笑顔がくもる。
「さっき、お礼がしたいって言ったでしょう? なら、お母さんの病気を治してよ」
「それは、できないよ」
ニコラは困ったように言った。
「どうして? あなたがサンタクロースなら、できるはずでしょう?」
「そんな力、僕には与えられていないよ。僕はプレゼントを渡すだけだもの」
「なら、薬をちょうだい」
「アダ…」
「薬さえあれば、お母さんは治るんでしょう?」
ニコラは力なく首を振った。
「薬があったって、一時凌ぎにしかならないんだよ」
「なんで、そんなこと…」
「僕にはわかるんだ。君のお母さんは、もう…」
「いや…やめて!」
アダは両手で耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
「人にはね、誰にでも天命というものがあるんだよ。アダのお母さんはもうじきこの世を去ることになる。だけど、永久にお別れするわけじゃないんだ。この世を去った世界には、人々があの世と呼ぶ世界がある。アダも、いずれはそこに行くことになるんだよ。だから、ほんの少しの間お別れするだけなんだ」
「やめてったら! そんなのはただの気休めよ!」
アダは堪らずに叫んだ。そこで、ニコラはそれ以上は何も言わなかった。ただ、去り際にアダへプレゼントを残して行った。
「アダ、これを君にあげるよ。これは、毎年1度だけ、聖なる夜にのみその力を解放することができるんだ。苦しくなったら使ってごらん」
そうして、ニコラは去って行った。ニコラの足音が完全に聞こえなくなった頃、アダはおもむろに顔を上げた。最初に目に入ったのは、足元に置かれていた籠だった。先ほど丘の上に置いてきてしまったものだ。そして、その傍らには、金色に輝く懐中時計があった。それは、アダの手のひらには余るほどの大きさで、蓋を開けるとオルゴールが鳴り響いた。曲名は、クリスマスの定番ソング『ジングルベル』である。
「きれい…」
思わず口に出してしまうほど、それは美しく、とても凝った装飾がなされていた。宇宙を思わせるようなキラキラとした青い貝の上に、金色に輝く星型のインデックス、ニコラの髪色を思わせる銀色の研ぎ澄まされた3つの針が置かれていた。また、文字盤には夜空に飛ぶ7頭のトナカイとサンタクロースの姿があしらってある。
アダは、その懐中時計を握りしめると胸元まで手繰り寄せる。懐中時計には、ほんの少しだけニコラの温もりが残っているように感じられた。
「なに? その話」
目をこすりながらアリサが尋ねた。
「おばあちゃんの子供の頃の話だよ」
「ふうん」
そう言うアリサは、「嘘だ」とは言わないものの疑惑の目を向けてくる。その横で、泣き疲れたのか、レナはすっかり眠ってしまっていた。
「サンタの話はともかくさ、おばあちゃんって貧しかったの?」
「そうだねえ。あの頃は大変だったねえ」
「そうなんだ。ねえ、おばあちゃん…今は、幸せ?」
「ええ、とっても幸せだよ」
「そう…」
次の瞬間、安らかな寝息が聞こえてくる。話が終わるまで頑張って起きていたようだが、そろそろ限界だったようだ。
「本当に、私は幸せよ。あの人に会えて、子供も授かって、そしてアリサとレナがいて…。すべては、あの時、あなたに出会えたから」
窓から見える空には赤みが差し始めていた。
「ニコラ…」
そうつぶやきながら、アダは孫娘たちの頭を優しく撫でてやるのだった。