紫陽花
降り注ぐ雨の中、僕は美しい紫陽花を見た。
--それは、ある梅雨の季節。まるで世界が雨に支配されたかのような静かな日のことだった。
止みそうもない雨の中、黒の折り畳み傘を差しながら家路を急いでいると、ソレが唐突に視界の中に入ってきた。
戸が全て板で打ち付けられた無人の家の庭に咲き誇る、赤い、紅い、真っ赤な紫陽花。
まるで大輪の薔薇にも劣らない美しさだと、僕は思った。
僕は花に雅を感じるほど多感な人間ではないが、その紫陽花には言いようもないほど強く引き付けられてしまっていた。
何かに導かれるようにして庭の中に足を踏み入れ、紫陽花に近づく。あの時は分からなかったけど、今ならばその行動の理由が理解できる。
きっと僕は、呼ばれたのだろう。
―――雨の中、傘も差さずに紫陽花の下に立っていた、あの美しい人に。
僕が庭に踏み入れたとき、外の道から見た時には居なかったはずの女性が、傘も差さずに紫陽花の方を向いて立っていた。
たゆたう黒髪は無残にも雨に濡れ、見た限り上等な作りである古風な紅い振袖も水を吸って黒に変色していた。
僕と彼女までの距離が、後数歩までというところまで来たときに、ようやく彼女が僕の方に振り返った。
白い、透き通るような肌。優しげな少し垂れた目尻。ゆるりと持ち上げられた口角。
彼女は僕をその目で認識すると、恭しく頭を下げた。
その動作は濡れ鼠の彼女にはとても不釣り合いだったはずなのに、そうあるべきだと言いたくなる程にしっくりきていた。
そして彼女は僕に対し、まるで旧知の友を相手にしているかのように語りかけてきたのだ。
――こんにちは、いいお天気ね。
――雨ですけど。
――あらあら、紫陽花には雨と相場が決まっているでしょう?
――いえいえ、紫陽花はともかく貴女の様な美しい女性には雨は似合いませんよ。
――まぁお上手ね、ありがとう。
――どういたしまして。
――それでも私に傘を貸そうとはしてくれないのね。
――だってそれじゃあ僕が濡れてしまうじゃないですか。
――あぁ、それもそうね。
――ええ、そうですよ。
――うふふ。
――あはは。
紫陽花の前で語らう男女。
その響きだけを聞けばロマンチックなものを感じるかもしれないが、濡れ鼠な和服美人と傘を差した男子高校生の図は中々シュールである。
僕は彼女と小一時間ほどそんな電波な会話を楽しみ、その庭を後にした。
いくつになっても美しい女性との会話は心が弾むものである。それがたとえ浮世離れした女性だったとしてもだ。
結局、彼女があの廃墟の庭に居る理由や、傘を差さない理由は最後まで聞かなかった。
それは、聞いてはいけない事だと本能が告げていた。
あの雨の日の邂逅以降、僕が彼女を見かける事は一度としてなかった。
ただ、あの紫陽花の鮮やかさだけが、ずっと僕の心に残り続けた。
それから暫くして梅雨が明け、初夏の暑さが気になり始めた頃。
僕らの町にちょっとしたニュースが駆け巡った。
『廃屋の庭先から白骨死体が見つかった』
僕は妹からその話を聞いたのだが、残念なことに僕はその白骨死体がどんな人物なのかを知っていた。
だからその人が、死後30年はたっているだろう若い女性であるということがわかっても大して驚く事はなかった。
兄さんは反応が薄くてつまらないと、妹に詰られたのは言うまでもない。
―――今でも目を閉じると鮮明に思い出せる、真っ赤な紫陽花と彼女の姿。
赤い、紅い、真っ赤な紫陽花。
紫陽花が赤くなる原因は、土壌の成分の変化によるものだと言われている。
ではその変化の原因は?
――何が、土の下に埋まっていた?
本当は最初から全部わかっていた。
彼女の足元から覗く白いモノ。
連日の雨により露出した、彼女の体。
何も、見えていない振りをした。
何も、気づいていない振りをした。
あの日、彼女が僕に望んだ役割はきっと――、
「紫陽花の花言葉の中には、『あなたは冷たい』っていうのもあるんだよな」
「兄さん、今何か言った?」
「……いや、なんでもないよ」
訝しげにこちらを見る妹を軽くあしらい、僕は初夏の緑あふれる自宅の庭を向いた。
遠くのひぐらしの鳴き声を聞きながら、僕は静かに目を伏せる。
――あぁ、今年も夏が来る。
主人公: 七樹司
高校三年生のごく一般的な少年。霊感に優れている。