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「涼宮ハルヒの消失」論

 「涼宮ハルヒの消失」論




                        一  「消失」の構造



 「涼宮ハルヒの消失」という作品は、ここ十年くらいの小説の中ではベストの出来ではないかと思う。僕は「涼宮ハルヒの憂鬱」を、「消失」を読む前に読んでいたが、それほどいいとも凄いとも思わなかった。だが、憂鬱と消失はぜんぜん違う。ここで作者は明らかに大きなジャンプアップをしている。それは村上春樹が「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」にジャンプアップするのに似ている。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公の「僕」が、当時の消費資本主義の享楽的な雰囲気、それだけでは自分には何かが足りないと考えて、そうして冒険を始める物語だ。そして主人公は冒険をして、そしてまた元の日常に帰ってくるわけだが、村上春樹作品の一番重要なポイントは、この主人公の「足りない」に象徴されると思う。村上龍作品においては、むしろこの「足りない」は村上春樹とは逆の表れ方をしていて、村上龍は現在のこの空虚な日常を疾走して描く。そしてその疾走のスピードを限界以上にまで上げる事によって、快楽そのもの、あるいはこの現代の享楽的な世界そのものの背後にある空虚を表出させる。村上龍は現代社会に対して、文体(そのスピード)で勝負を挑んでいるのに対して、村上春樹の作品では主人公が世界から外れた場所で、世界そのものをシニカルな目線で見ているという、その視座の定め方で勝負を抱いている。村上春樹作品は今、ノーベル賞だか何だかで色々言われているが、彼の作品が根本的に今の享楽的な世界に対して闘争を挑んだという事、そしてまた、彼が少なくとも彼独自の視点や、彼独特のオリジナリティを獲得しているという事、これは間違いなく確かな事であり、この事を回避しては褒めたり非難したりするのは間違いだと僕は思う。ただ、最近の両村上は時代と明らかにずれてきていると僕は思っているが、しかしそれはまた別の問題だ。


 涼宮ハルヒの消失は、まずSOS団という「日常」が存在する場所から始まる。このS0S団というのは、主人公の高校生キョンのクラスメイト「ハルヒ」が作った部員五人の謎のサークルであり、そしてこのサークル結成の動機は、ハルヒが今の世の中が退屈だから、もっと面白い事、もっと異常な事、変わった事を発見する為に作った、という事になっている。そして主人公のキョンは他の部員と共に、このハルヒのはた迷惑な行為、そのサークル活動に巻き込まれる事になる。そして、そういう、日常の凡庸性に対して非日常性を求める、というのが「消失」までのメインテーマになっている。これ自体は、それほど目立った事もない。消失まではあくまでも、できのいいライトノベルという評価で十分だろう。そこにはまだ非凡なものはないと言っても良い。僕はそう思っている。

 ところで、この部員五人のメンバーには、実は主人公以外のメンバーにそれぞれ特殊な能力が割り振られており、そしてその能力が作品を進行させる為の鍵となっている。かわいい女子生徒の「みくる」は実は未来人であり、タイムマシンで戻ってきてハルヒ達と一緒に高校生活をしている。男子生徒の「古泉」は実は超能力者であり、彼は実は「裏の世界」で使える超能力を持っている。そして文学少女の「長門」は実は宇宙人であり、これは色々な能力を行使できる。そして、これらの能力の中心には実は「ハルヒ」がいて、ハルヒが非日常的なものを求めるという所に、これら四人のメンバーの能力が発現したという事になっている。つまり、ハルヒ自体は平凡な女子高生なのだが、しかしハルヒには自分でも気づかない特殊な能力があり、それにより、この世界に様々な、その部員四人を含んだ超常現象、その能力などが発現されたという設定になっている。だから、ハルヒ自身は自分でも気づかない内に、世界に非日常性をばらまいていた事になるが、本人はそれに気づかずに、SOS団を結成して、「謎」を探したり究明しようとする。だから、そのハルヒの隠された能力と、ハルヒ自身がそれに気づいていないというその「ズレ」が作品の骨子となっている。そしてこのズレのさなかで、物語は進行する。


 しかし、ここまではあくまでも、「涼宮ハルヒの消失」の為の前置きとしての段階である。そしてこのSOS団に所属するキョンの平々凡々とした日常の描写から「消失」という作品は始まる。消失は最初の三十ページまではその平々凡々とした日常の描写になっている。キョンは普通の男子高校生であり、「やれやれ」などと言いながらハルヒの無鉄砲な言動に振り回される。彼は元々、そんな非日常性などに大した興味を抱いていなかったのだが、しかし、無理やりハルヒに振り回されている男子生徒、というポジションを取っている。とはいえ、このキョンにはちょっぴり非日常的なものへのあこがれもある。だが、彼は自分が平凡だという事、非日常性、大きな起伏の物語、そんなものを求めても自分が失望するだけだという事も悟っているので、彼はハルヒに振り回されながら、「やれやれ」と繰り返すだけだ。だが、この消失の三十ページ過ぎた辺りで、急に忽然とSOS団が消えてしまう。学校から急にSOS団が消え、キョンは一人だけ元の高校に取り残される。しかも、彼らSOS団ーーーハルヒ、みくる、長門、古泉の四人が学校から消えたという事を、キョン以外の生徒は誰も認識していない。だから、彼らが消えたという事を知っているのはキョンだけだ。平々凡々とした日常は、昨日までと同じように今日もまた続いてくのだが、しかしその中にSOS団の存在はない。しかしその事に気づいているのはキョンだけだ。だから、彼は居心地の悪い思い、自分だけが場違いな思いをしながら、SOS団を探すはめになる。そしてこの探索こそが、この作品の物語、この作品の「冒険」の部分となる。先の村上春樹の「羊をめぐる冒険」では、日常的な社会に倦怠する事が冒険の為の動機となっていた。彼は日常に満たされない思いを抱いて、その思いを具現化するかのように未知なものへの冒険を始めた。この辺りは「ハルヒ」がSOS団を作った動機に似ているだろう。だが、この「消失」の中で、その物語の構成は「羊をめぐる冒険」より更に一歩先に進んでいる。キョンがSOS団を捜索するのは、失われた『非日常性』を取り戻すためであり、日常性に倦怠した為ではない。彼はいつの間にか、SOS団という非日常の中に入り込んでいた。キョンはハルヒの無鉄砲な言動、そして彼女が気づかずに巻き起こす色々な珍騒動に「やれやれ」と言いながらつきしたがってきたはずだ。しかし今や、こつ然とその非日常性は消えてしまった。「羊」では、『日常→非日常→日常』の起伏が物語の根底となっていたが、この作品では『非日常→「非」非日常→非日常』が物語になる。つまり、そこでキョンが望むのはうしなわれた非日常性を取り戻す事であり、「羊」のように単なる日常性に復帰する事ではない。世界はハルヒのせいでもう十分に非日常化していた。というより、それは日常の中で、SOS団という非日常性が孤島のように存在していたと言ったほうがいいだろう。だが、今や急にその非日常性が失われてしまった。SOS団は消え、涼宮ハルヒは消えてしまった。世界は元に戻った。だからある意味、平々凡々とした生活を表面上は望み、そしてハルヒの無鉄砲に疲れていた、凡庸なキョンという青年からすれば、彼の理想通りの世界に戻ったと言えなくもない。今や嵐は消え去った。ハルヒは消え、SOS団は消えた。やれやれ、もう俺はあんなめんどくさい思いをしなくて済むじゃないか。だが、彼はその自分の思いが嘘である事を自分でも知っている。だから、彼は走りだす。ハルヒを、SOS団を探し出すために走りだす。


 「こういう喩えはどうだろう。

 とある所にとても不幸な人がいたとする。その人は主観的にも客観的にも実に見事なくらいの不幸な人で、悟りの奥義を極めた晩年のシッダルタ王子でさえ目を逸らしてしまうような本質的な不幸を体現している人間である。その彼(中略)が、いつものように不幸にさいなまれながらの眠りに就き、ふと翌朝目を覚ますと世の中が一変していたとしよう。そこはまさにユートピアと言っても言葉が足りないほどの素晴らしい世界で、(略)もはやどんな不幸も彼の身に降りかかる事はない。一夜にして彼は地獄から天国へと誰かに連れて行かれたのだった。

 (略)その場合、彼は喜ぶべきなのだろうか。世界が変化したことで、彼は不幸せではなくなった。しかしそれは彼の元いた世界とは微妙な異なる場所であり、何よりもこうなってしまった理由が最大の謎として残されるのだ。」

 

 ここでキョンという主人公は苦悩する。普通の小説の主人公というのも、大体は一応苦悩してみせるのだが、それは大抵作者が意図的にこねくりまわしたものであり、また浅い動機に起因する薄っぺらいものである。そしてそれに程度の浅い読者が共感する事でそうした作品は成り立っているが、ここでのキョンの苦悩はそうした作品の苦悩とは毛色が違っている。彼は今、幸せになれない事を嘆いているのではない。幸せは、平凡は今や彼の身に訪れた。だが、彼は幸福より不幸を望む。何故?。ハルヒが好きだから?。SOS団が好きだから?。それはもちろん、そうだからだろう。だが、よりもっと根本的な次元では、人は幸福よりも不幸を好む生き物だからである。こんな物言いは妙だと思われるかもしれない。だが、これまでの優れた物語が全て悲劇だった事を思い起こすのであれば、僕の言う事にも少しは信憑性が出てくるだろう。現代は平凡で、そしてそれ故幸福な世界である。だが、それに対してハルヒはSOS団を作った。何故?。退屈だから。それ以外に理由はない。そして今やSOS団は失われた。そして、キョンはそれを取り戻す為に走りだしている。何故か?。彼は幸福よりも、不幸を好むからだ。より正確に言えば、彼は一般的幸福よりも、不幸の独自性を尊ぶ。彼はSOS団を取り戻すために走りだす。彼はもちろん、そんな奇妙なサークルなどが、彼にとって何の役にも立たないくだらないものである事を承知である。だが、彼は承知の上でそれをやっているのだ。今の、幸福ばかり求めている一部の人種にはこの事は決して理解できないだろう。人は、幸福より不幸を求めなければならない、そんな「場所」というのがあるのだ。そしてその場所とは今この時である。世界はいつ間にか変質してしまった。キョン一人を残して。世界はいつの間にか、またあの平凡な日常に戻ってしまった。だが、その平凡はキョンにとっては「非ー平凡」である。彼一人にとっては。他の人間にとって日常であるところが、彼にとっては非日常である。キョンにとっての日常は他人にとって非日常である。物語の構造は村上春樹から一段と進んだ。これは、21世紀の僕らにやってきた新しい物語ではないだろうか。



                   二   優れたサブカルチャー作品の構造

 

 最終的にキョンはハルヒを見つけ、そしてこの、いつの間にかずれてしまった世界を修正する事に成功する。そこにはタイムトラベル的な、あるいはSF的なプロットの作り方が在るのだが、しかし、これは重要な事ではない。…今、僕はこの話から少し脱線して、最近の優れたサブカルチャー作品のプロットの作り方、というより世界観の作り方に触れてみよう。うまくいくかは分からないが、とにかくやってみよう。

 この涼宮ハルヒの消失では、主人公を残してその周囲の世界は全て変わってしまった。それはSOS団が消えただけなのだが、しかし誰もSOS団の事を覚えていない。だからそういう意味で、主人公以外の世界は誰かによって改変されたとして想定できる。だから、このキョンの孤立は、世界からの孤立である。戦うのは自分ーーー主人公であり、そして戦う相手は世界である。そしてこの世界観の作り方、つまり、主人公対世界という世界観の作り方は今の優れた(そうでないものもだが)サブカルチャー作品では大抵やっている事だ。例えば、シュタインズ・ゲートというゲーム・アニメ作品がある。この作品も、タイムトラベルの道具立てを使って、主人公を孤立させる。そして、周囲の世界は「正常」にも関わらず、主人公はその「正常」なはずの世界を元に戻すために必死に闘争する。だから、こうした闘争もやはり、世界対主人公という、大きなものと微小なものとの闘いである。


 他に例を上げてもいいのだが、あんまりあげても仕方ないだろう。ここでの重要なポイントは、主人公が世界と戦う事、そして世界は「正常」なのにも関わらず、主人公にとっては異常に感じられるという事にある。例えば魔法少女まどか☆マギカや、ペルソナ3、またはペルソナ4といった作品を思い起こしてみよう。そうした作品ではいずれも、それらの主人公の闘争、世界を元に戻す為の冒険はひと目を忍んだ所で行われている。そして、その闘争が行われている世界は相変わらず、日常的で平和的なのだ。そしてこれらの世界いずれでも、日常や平和の裏側で密かに危機が進んでいる。これらの作品がこういう物語上の枠組みを作るのは僕は偶然ではないと考える。例えば、もっと以前の作品であるならば、冒険や物語をサブカルチャーが作るに際しては、戦場や国家的危機などを物語の設定としてもってくれば良かった。戦争状態に生まれた主人公を想定すれば、簡単に危機が訪れ、そしてそこから闘争、涙、苦悩、愛などの物語に必要なテーマが自動的に生まれてくる。しかし、今や僕達は長い平和と倦怠の時を過ごした。そして、この高度で平和で倦怠している世界の裏では、その悪意が静かに澱のように溜まっていた。そしてそれが例えばオウムサリン事件のような形で突如として噴出したりしてきた。そして今はインターネット上では人間の悪意が一斉に噴き出している。人々はメディアを通じて名の売れている人間をいじめ倒す事をもはや自分達の日課とするにいたっている。このような世界そのものを、おそらくこれら上記のサブカルチャー作品は模倣しているのである。作品の中で戦場を設定にするのは、クリエイターの心象的に不自然に感じられるのだろう。だが、物語を発生させる為には、どうしても何らかの危機が必要だ。だから、この世界は二重にねじれる事になる。一つは日常の世界、そしてもう一つは非日常の世界。そしてこの世界を行き来できるのは主人公(達)だけと想定すると、ようやく現代の社会風俗にフィットした物語が生まれる事になる。おそらく今のクリエイターはここまで意識的に物語を作ってはいない。だが、彼らは現代社会自体をビビッドに感じているからこそ、このような物語の枠組みを生み出したのだ。

 

 また、もう一つだけポイントを言うなら、世界対主人公のような、極大のものと極小のものとの対決にする事が主人公の闘争に、その内在性により深みを与える。あるいは僕達はもう卑小な物語では満足できなくなったかもしれない。例えば、誰か親友を守るための、恋人を守るための、普通の物語には僕達は飽きてしまったのかもしれない。いや、それよりも大切な事はおそらく、僕ら個人の自意識に世界全体が刻印されているということだろう。僕らはメディアを使って世界全土の情報を吸収する事をもはや普通の事としている。今、一人一人の普通の人間の意識はインターネットの回線を通して、世界全土に広がっている。そしてこの個人が発する意見は常に、世界全体に対してのものなのである。こんな事はこれまでのどの時代にもなかったことだ。だから、僕達の自意識ーーーその意識の『肉体』は世界全土を覆っている事になる。だから、僕達のその意識の拡大された領域からすれば、普通の物語はあまりに卑小に見える。だから、普通の物語は差異とか違和を作り出すために極端な暴力性や性的な要素を持ち出したりするが、それは瞬間的な印象で読者をごまかすためのトリックに過ぎない。(ごまかされる者はたくさんいるが。)そして今、この肥大した個人の意識に照応するように、上記の物語の主人公達は世界そのものと闘争する。彼らの一つの判断は常に、世界全体の運命を決めかねない重大な一手なのだ。だから、上記のような作品群の設定はそのような僕達の意識の広がりに対して満足させる事のできる物語である、と言う事ができるだろう。

 だがそれ以上に更に大切なのはーーーその世界の広がりの中で主人公が孤立するという事である。人が、物語に共感する時は、一般的に言って、主人公の孤立に共感するのである。主人公の幸福で楽天的かつ、また世界に溶けている様などは基本的に物語にはそぐわない。主人公は常に何らかの形で孤立し、絶望に落とされ、闘争し、もがかなければならない。だが、このもがく対象は何かというのは問題だ。これもまた、過去の闘争相手はもう存在しないので(戦争は遠い昔になった。親と子の争いなども古いテーマだ。)、だから代わりに、メディアによって一体になった「世界」が現出してきた。これらの作品群で彼らが闘争するのは世界そのもの、あるいは世界を滅亡させようとするものである。そこでは、主人公たちの喜怒哀楽は全て、世界そのものの運命と直結する。そして、それに対して共感する読者というのはつまり、彼らの意識そのものも既にメディアによって「世界化」されていたものなのだ。だからこそ、上記の作品群はそれぞれサブカルチャー作品の中での優れた作品として今大衆にも受けるし、また彼らの心を深くえぐる事が可能なのだ。



                          三   結


 「消失」に戻ろう。消失という作品にも「羊」と同じように出口はこしらえられている。主人公キョンは、最終的にはSOS団を発見し、そしてまた世界を、SOS団がいた元の世界に戻す事に成功する。そしてこの冒険がこの消失の物語である。

 実を言うと、「消失」という作品について僕が言いたい事は、もうほとんど残ってはいない。この作品のラストの方で、キョンは再び、自己問答を繰り返すのだが、それは彼が「幸福を望むのか、あるいは不幸を望むのか」の二択を自分自身につきつける場面となっている。その場面はこんな風になっている。


 「ーーーそんな非日常な学園生活(SOS団での生活ーーヤマダ)を、お前は楽しいと思わなかったのか?」


 そして答えはイエス、である。キョンは自分が本心ではSOS団を取り戻したいと思っていた事を自分に再確認させ、そして世界をまた元に戻す。キョンにとっての、一般的な意味での幸福は不幸であり、また一般的な意味での不幸は幸福である。世界はいつの間にか逆転している。思えば人は、あまりに幸福を、平凡を望み過ぎたのではなかったのか。人はあまりにも、このシステムの中で一つの線路に乗る事を自分達に許し過ぎていたのではないか?。生まれた時から家族に守られ、学校に守られ、会社に守られ、そして目指すべきは「待遇の良い会社」に入り、老後を家族と共に「幸福に暮らす事」である。私達は天才ではなく凡人だから、あくまでもこの世界の意向に沿って幸せになりましょう。私達は天才ではないから、危険を冒したり、何か難しい事を考えたり、何かに挑戦する必要はない。リスクを負いたくはない…。年金が払われ、保険が設定され、社会システムは整備され、雨の下には必ず屋根がある。世界とはいつの間にか整備された一つの自動運転機械となっていた。自分の足で歩くよりも、この世界の整備されたマシーンに乗っていった方が楽である。その方が遠くまで行けるし…。だが、そうだろうか?。何故、キョンは、SOS団などという奇妙な人々と一緒にいる事を望んだのか?。おそらく僕は誇張しすぎているだろうが、しかし、キョンの自分への問いと、それに対する自分への回答は、世界のこのような状況を背景としている。もし、不幸こそが自分の望む事であれば、どうしてそれを望んでいけない理由があるだろう?。世界が平凡の別名ならば、愚かになる事、失敗する事も厭わずに、何か凡庸でないものを目指して何が悪いのだろうか?。

 そしてキョンは世界を元に戻し、そしてまた彼は元の世界に戻ってくる。世界は平静であり、そしてそこにはいつもと変わらないSOS団がある。そして、このキョンの冒険を知っているのは、この世界改変の事件そのものと密接な関わりを持つある人物だけだ。その人物がこの世界改変を起こしたのだが、しかし、それ以外の人間は誰もこの事を知りはしない。キョンは異界から帰ってきた。だが、その異界とは僕達にとっての「日常」、あるいは「普通の世界」なのだ。おそらく、僕らの日常はいつの間にか、異界になっていたのだろうーー。そしてキョンの物語はここで終わる。この物語は村上春樹の「羊をめぐる冒険」以来の重要な物語であり、21世紀の日本に住む僕達にとっては必要な物語だ。物語の構造は村上春樹以来、一段進行し、そしてそこで、日常と非日常の意味は改変された。まるで、この世界そのものの意味が、作品の中ではあべこべになっているように。世界はいつの間にか変質しており、そしてその事をこの作品は的確にとらえている。僕はおそらく、この作品の意義を必要以上に強調しているだろうが、しかしそれも批評の一種だと思っている。僕がこの作品に対して言いたい事はこれで終える。それでは。




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