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猫だったころ。

作者: 胡麻

鳥居朝子、17歳。

彼女はいま、東京都内のとある大学病院の一室に入院している。原因は急性盲腸炎だった。その日はいつも通り学校へ行き、帰りに塾の自習室へと足を運んでいたはずだった。私服の予備校生に混じってエレベーターに乗り、自習室のある最上階へ向かう。ドアが開き、朝子が降りてすぐ、今までに経験したことの無い酷い腹痛に襲われた。体中から脂汗が吹き出してくるのを感じ、その場にしゃがみ込む。他の生徒は声を掛けることなく足早に通り過ぎて行く。結局、異変に気付いた塾講師が救急車を呼び、搬送先の大学病院でその日のうちに入院、手術ということになったのである。


腹部の痛みと鈍い頭痛を感じて朝子が目を覚ました時には、日付が変わり、太陽が新しい一日を人々に届けるため、東の空を明るく染め始めていた。ただし、6人部屋の入り口すぐの場所に設置されたベッドに横たわる朝子には知る由もないことであった。朝子の母親は面会者用のパイプ椅子に座り、文庫本に目を落としていたが、朝子の顔をみるやいなや立ち上がり、看護師を呼ぶためにコールボタンを押した。

「…急性盲腸炎だって。いろいろ頑張りすぎたのね。」

母親は、周りを気にしてか小さな声でそう言った。ベッドライトの照明のせいで、いつもよりもっと疲れているように見えた。


「鳥居さん、ご気分はいかがですか?」

緑色のカーテンが開き、奥から小柄な看護師が現れた。髪を明るく染めており、アイメイクもばっちりだ。じっと見つめる朝子の視線など一切気にせず、その看護師は慣れた手つきで点滴の残りをチェックし、何やらメモを取った。

「お腹が少し痛くて、体がだるいです。」

目を覚ました時から少しずつ、腹部の痛みが増してきている気がしていた。それに並行して頭痛も。意識がしっかりし始めたということなのだろうか。

「鳥居さん、術後ですのでね、今日一日はベッドで、安静になさって下さいね。微熱が出ることが多いので、解熱剤も一回分、ここに置いておきますから。食事は今日は控えて下さい。」

彼女は事務的な口調で説明し、朝子の顔色を確認するように覗き込むと、母親に挨拶をし、戻って行った。


落ち着きのある緑色のカーテンで仕切られた空間。改めて辺りを見回すと、簡易テーブルの上に小さなテレビがあって、さらにその上に缶ジュースが2本、並んでいる。薄暗くてよく見えないが、その隣にあるのはおそらく朝子のパジャマだろう。

初めての入院。でも、受験前のこんな時期じゃなくてもいいのに。白っぽい天井に見つけたシミを数秒間見つめながら、そんな事を思う。


「まさかこんなものが…いえ、びっくりしてしまって。いえ、私には何が何だか…」

動揺した母親の声で目を覚ました朝子は、どうやら二度寝してしまっていたらしい。母親はカーテンを隔てた向こう側で誰かと話しているようだ。昼になったのか、病室に美味しそうな匂いが漂っている。


「普通はあれですよね、便と一緒に、全部排泄されるっていう感じですもんね…」


朝子は、瞬きもせずにじっとそのやりとりを聞いていた。母親が話している相手は朝子を担当した執刀医だろう。急に、自分の体にはなにか、盲腸とは別の、重大な疾患があるのではという疑念が湧き上がってきた。これは、ドラマでもよくあるシーンだ。…嫌だ!クラスメイトのサキと真由美と、再来週に年明けカウントダウンライブに行くことになっているのに。吹奏楽部のフルート合同練習だって、やっと楽譜を見ないで演奏できるようになったのに。

たった一瞬のうちに、いろんな気持ちが湧き上がってきて頭のなかを駆け巡る。呼吸が早くなり、苦しい。


「朝子ちゃん、起きた?」

母親がカーテンを少し開け、複雑な表情でこちらを見ている。それを見た朝子は、母に申し訳ないという気持ち、謝罪してもし尽くせないほどの罪悪感が湧き上がってくるのを止められなかった。随分前に離婚して、苦労して自分を育ててくれている母親。辛い不妊治療を経て出来たのが自分だということを、朝子は知っている。

朝子はとっさに、枕元にあったガーゼを掴み、それで顔を覆った。涙が溢れた。

「朝子ちゃん、どうしたの」

びっくりした母親が駆け寄る。朝子の具合が悪くなったと思ったのだ。



看護師と医師が朝子のもとに駆けつけ、朝子には重大な疾患や怪我など見られないということを繰り返し伝えたのだが、朝子は半信半疑でそれを聞いていた。母親の表情が忘れられなかったのだ。その母親は笑いながら朝子をなだめる。では、さっきのやりとりはなんだったのか?その質問に母親は答えず、代わりに医師が口を開いた。

「…鳥居さんの腹部から、出てきたものがあるのです。これです。おそらく、動物かぬいぐるみの毛、でしょうか。ハウスダストではありません。これは患者さんの所有物という扱いになりますので、お母様にも確認していただいたのです。」

透明のビニール袋に入れられた、茶色いかたまり。一瞬、毛糸のようにも見えるけれど、それでは細すぎる。

「ウチで動物なんて一度も飼ったことがないのに、どうしてって、さっき話していたのよ。人形はあったけど色も質感も違うし。」


医師は朝子と母親を交互に見て、こう言った。

「となると、どうやって体内に入ったのか不思議なのですが…いずれにせよ、どうしても不安なのであれば、一度精密検査を受けてもいいかもしれません。」

そこまで言うと、看護師が来て医師を呼んだ。医師はちょっと失礼、といって足早にその場を立ち去り、カーテンが乱暴に閉められた。


寝たきりを強いられた朝子は、母親に頼んでその得体の知れない物体を手渡してもらった。おそるおそる触れる。透明のビニール袋に入っているそれは、湿っていた。朝子の体内にあったのだから至極当たり前のことである。しかし、手に触れた途端吐き気を催したのは、あまりにも生々しい手触りが朝子自身を襲ったからであった。


「朝子、お母さん、一旦家に戻るわね。夜、私服とか下着を持ってくるから。」

空に近いハンドバッグに文庫本を入れ、母親は椅子からゆっくり立ち上がってそう言った。

「…携帯電話の充電器もお願い。ベッドにあるとおもう。」

おそらく、電源が切れてしまっているだろう。サキと真奈美からメールが来ているかもしれない。今日は3人で大学進学セミナーに参加する約束だったのだ。母親はベッドの近くにパイプ椅子を移動し、その上に飲み物と解熱剤、朝子の携帯電話、テレビのリモコンを置くと、またね、と声をかけ、静かに病室から出て行った。


朝子以外の患者さんが昼食をとっている間、横になったまま、朝子はぼんやりと、あの茶色い毛のことを考えていた。考えていたというより、思い出そうとしていた。いったい、どうやって体に入ったのだろうか。

友人や親戚の飼っている犬と猫を触った記憶はあるけれど、数回にすぎない。そもそも、最後に動物に触ったのはいつだろう。小学生の頃?幼稚園生の頃?もっと前だろうか?枕元に置かれたそれは、ビニール袋の端だけを朝子の視界に映し、一時も朝子の注意を逸らさないようにしているかのようだった。


熱っぽい体を伸ばして、あまり腹部に負担をかけないよう、そっとビニール袋に手をかける。見えないところへ移動しようと思ったのだが、朝子はそのまま、じっと中身を見つめた。不思議な光沢を放つそれにそっと触れる。今度は、吐き気は起こらなかった。

午後の陽光で室内の温度が上がったためか、茶色の毛からも、暖かさを感じた。すぐに、暖かさだけではないことに気がついた。ツヤが、光沢が、まるで生をうけているかのように輝いて見える。心なしか、さっきよりも重くなったようだ。

朝子は一瞬ギョッとしたのだが、袋の上から何度か毛を撫で、おそるおそる封を開けて見ることにした。手に力を入れ、端から少しずつ開ける。朝子が今まで嗅いだことのない、「人間の」匂いが一瞬漂う。人差し指と中指を入れ、摘み上げようとそっとそれに触れた瞬間、目の前が一瞬、明るくなった。



…暖かい。太陽が、頭のてっぺんからつま先まで私を暖めている。こんなことが、案外しあわせなのだ。目を閉じたまま、深呼吸する。何かがおかしいのは分かっている。私は今、病院にいるはずだ。お腹が痛くて、だるくて、寝たきりだったはずだ。

多分夢を見ているんだろう。でも、夢にしてはリアルだなあ、と思いながら目を開けてみる。リビングの窓側に置かれたソファに、横になっていたようだ。家具は何もかも真っ白。まぶしい。開け放たれた窓から、鳥のさえずりと、子どもの声が聞こえる。小春日和のような陽気さが、部屋いっぱいに溢れていた。こんな不思議な状態であるにもかかわらず、朝子は何故か落ち着いていて、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

ふいに、誰かがドアを開けて部屋に入ってくるのが分かった。足音は静かで、そっと朝子の隣に座る。見たことのある男性だった。ただ、誰なのか思い出せなかった。彼はまじまじと朝子を見つめ、優しく微笑んだ。つい、朝子も笑い返す。作り笑いだったのだが、相手は気づいていないようだ。それから、やけに大きく感じられる手が、ニューッと伸びてきて、朝子を持ち上げると、そのまま膝の上に座らせた。一瞬、ジェットコースターに乗ったときのように世界が一転する。その時初めて、自分がいつもの自分、つまり、鳥居朝子ではないことに気づいたのだが、そんなことはどうでもよかった。洗濯物を干し終えた母親が、エプロンを畳みながら小走りでこちらへやってくる。私たちだけが共有できる、特別な、暖かい空間。生きているもの全てに感謝したくなるような愛おしい時間が過ぎて行く。お茶と甘いお菓子が用意されたテーブルに向かう二人を、朝子は幸せな気持ちで追いかけた。その途中、壁に掛けられた姿見に何かが映った。毛並の整った、赤茶の、子猫だった。








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― 新着の感想 ―
[良い点] 猫がなぜ人間になったのか、猫に一体何があったのかを読者が自由に想像できるのは良いです。 [気になる点] タイトルがただのネタばれにしかなっていません。 主人公が猫だとわかった後の真実を、読…
2014/02/12 13:59 退会済み
管理
[良い点] 登場人物たちの繊細な表現が魅力的で、不思議な体験を受容しやすく配慮された文体が素晴らしい作品。 [気になる点] (特になし。) 猫になった主人公の今後を、期待してみたいです。 [一言] ホ…
2014/02/12 11:59 退会済み
管理
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