モラトリアムと太陽
飼い犬のコーギーが死んだ。名前はサン。メス。
俺が生まれた日に生まれたての子犬だったサンを引き取ったらしいので、人間の年齢なら九十歳以上になる。俺が二十歳になった朝、ソファの上で静かに息を引き取っているのをみつけた。
もしサンが死んでしまっても、涙は流れないと言い張っていた俺だが、無理だった。兄妹のように時を重ねてきた俺の家族。涙が流れないわけがなかった。毎日散歩して、休日はいつも体を洗ってやっていた。一緒の布団で寝たりもした。そんな思い出が駆け巡ると、さらに涙が溢れた。
両親を起こし、サンを弔った。庭の一角に小さな墓標を立て、その下に俺が埋めた。サンを可愛がっていた両親もさすがに涙ぐんでいた。サンは確かに俺達の家族だった。みんなに愛されて、おいたをして叱られたり、一緒にご飯を食べ、同じ時を過ごした。
これ以上悲しんでも仕方がない。老衰死、大往生だったのだから、どうしようもないのだ。
今日が休日でよかった。こんな気分で大学にいっても頭に入らないし、友人にみっともない顔を見せなくてすむ。煙草に火をつけた。嫌な顔して俺の部屋から出て行くサンの姿の幻視が見えた。止まっていた涙が一筋頬を伝いズボンに染みを作った。
なにもやる気がおきない。灰皿から天井に吸い込まれる紫煙を見つめながら、今日はもう寝てしまおうと思った。この怒っているのか、悲しんでいるのか、表現できない気持ちも、寝てしまえば少しは晴れるだろう。
「――、おき――だ――」
体を揺さぶられている。いつの間にか寝てしまっていたようだ。母さんだろうか、昼食の時間にでもなって俺を呼びにでも来たのだろう。少しずつ睡眠状態から覚醒していく、薄目で時計を確認するとまだ昼前だった。そして、顔を横に向け見えた姿は母さんではなかった。
「起きてください。兄さん、起きましたか?」
「君は、誰だ?」
俺を起こしたのは黄色いワンピースを身にまとった高校生くらいの少女。髪を結い上げており、犬の尻尾のような形をしていた。
少女は小首を傾げながらさも当たり前のように言った。
「あなたの妹ですけど?」
「俺に妹はいない。母さんと父さんに見つからずにここに来たのか?」
「お父さんとお母さんなら出かけてますよ。用事までは知りませんけど」
「そもそも、どうやって入った?」
「外の右側の鉢にある鍵を使って」
そういって家の鍵を指先でもてあそんでいる。隠す場所を変えないといけないな。
「君が不法侵入者かどうかは今は置いておく。名前は?」
「秘密です」
「俺は君にあったことがあるのか?」
「ありますよ」
まったく記憶にない。友人の妹だろうか、しかしこれほど記憶にないのもおかしい。記憶力がいい訳ではないが、断言できるほどに俺はこの子にあったことはない気がする。いたずらなんだろうか。それにしてはずいぶん手がかかっている。遊び感覚のいたずらで不法侵入するとは考えにくい。
「ここに何をしに来た?」
「兄さんに会いに来ました」
「だから、僕は君の兄さんじゃない」
「いいじゃないですか、私が呼びたいから呼んでるんです」
「何で僕を起こした? 盗みを働くなら起こす必要なんかないだろう?」
「何も盗みにきてません」
少し機嫌を損ねたようだ。眉毛が少しつりあがって心外だと腰に手を当てて、何かをつぶやいている。おそらく泥棒の類ではなさそうだ。いや、もしかして俺に気をひきつけて仲間が一階で何か盗んでるんじゃないだろうな。
俺は少女を押しのけて一階に駆け下りた。だが、一階には誰もいなかった。何かが盗まれたような痕跡もないし、印鑑や通帳も普段置いてある場所にある。俺の財布と携帯もおいてある。とりあえずポケットに突っ込んでおく。杞憂だったみたいだが、当初の問題は何も解決していない。後ろには少女が俺を追いかけてきていた。
「いきなりどうしたんですか?」
「君の目的は何だ?」
「だから、兄さんに会いに」
「そうじゃない。俺に会ってどうしたいんだ?」
「遊びましょう!」
目を輝かせながらこの子は何を言っているんだろう。見ず知らずの他人に突然遊びましょうとはいったいどういう了見なんだ。まさか、美人局とか言うやつなんだろうか。しかし、家に押しかけてまでやるようなことでもないだろうし、見た目はそんなことをするような子には見えないが、外見だけじゃ判断がつかないな。見つめていると、小首を傾げて見つめ返してくる。その表情がサンとかぶって思わず視線をそらした。
「遊ぶって、いったいなにして遊ぶんだよ」
「なんでもいいんです。まずは外にでましょう?」
少女は俺の意見を聞くより先に服の袖を引っ張っり、玄関の方へ行く。もう、なんかどうでもよくなってきた。何をしたいのかわからないが、この子が何をしたいのか興味がわいてきている。どうせ家にいても気分が沈むだけなんだ。とことん付き合ってやろうじゃないか。
玄関を出たところで少女は、家の隠し鍵を使い施錠して鍵を俺に差し出した。
「はい、返しておきます。もう必要ないので」
「当たり前だ。次からは呼び鈴を鳴らせよ」
「……わかりました」
素直に俯いた。返答まで少し間があったのが気になるが、隠し場所を代えておけば問題ないだろう。鍵を受け取りポケットに入れて、少女を見た。
「で? どこに行きたいんだ?」
「川原にいきたい、かな」
徒歩で十分ほど歩けば、遊具が少しある川原がある。サンの散歩コースだった場所だ。あそこでボール遊びしたり、一緒に駆け回ったりした。今日は駄目だな。おそらくどこに行っても思い出に浸ってしまうのだろう。それもいい。サンの記憶は死ぬまでこの心に刻み付けておけばいい。
少女は俺の少し前を歩いている。結い上げた髪が上下に揺れていた。本当に犬みたいなやつだな。足取りも今にもスキップを始めるんじゃないかと思うほど浮ついていた。それにしても本当に俺はこの子の記憶がない。兄さんと呼ばれる理由も、その前に名前すらわからない。
「なぁ、俺は君をなんて呼べばいいんだ?」
少女はくるりと体を反転させる。遠心力で髪の尻尾とワンピースの裾がふわりと浮いた。少女は下から俺を見上げるようにして、にこりと笑った。
「兄さんの好きに呼んでもらってかまいませんよ。君でもお前でも」
あくまで名前は教えてくれないようだ。しかし、いつまで一緒にいるかわからないが、君と呼び続けるのはちょっと抵抗があった。せっかくだから俺が一番気に入ってる名前で呼ぶことにしよう。
「なら、君の事を今からサンと呼ぶことにする。いいか?」
「……サン?」
なにやら驚いている。気に入らないのかと思ったがそうじゃないらしい。さっきまでにこりと笑っていたのだが、その顔が溶けたように崩れた。照れているというか、嬉しくてしょうがないといったような顔。よくわからないけど、嫌っていないなら構わないかな。
「どうした? サン?」
「もう一回呼んでください!」
「あ、ああ、どうしたんだサン?」
「えへへ」
サンと呼ばれるのがよほど嬉しかったのか、さらに破顔したあと、俺の腕にしがみついてきた。最近の年下はみんなこんな感じなんだろうか、積極的というかなんと言うか。しかし特にいやらしい気持ちにはならなかった。本当に妹がいたらこんな感じになるんだろうか。
しがみ付かれたまま川原に到着するとサンは駆け出した。そんなに嬉しいものなんだろうか、散歩するにはいい場所だが、そんなに駆け出すようなものでもないだろうに。歩いて追いかけていると、サンが逆走して胸に飛び込んできた。あまりの勢いに押し倒されてしまう。地面は草が生えているので体を痛めることはなかった。
「兄さん! 気持ちいいですね! 広いとこ気持ちいい!」
なにやら興奮していらっしゃる。たしかにごみごみとした住宅街に囲まれている場所に比べたら幾分開放感はあるが、そこまで俺はテンションは上がらない。サンは俺を押し倒したまま頭を胸にこすり付けてくる。引き剥がしたいが、思いのほか力強く押さえつけられている。今の時間は昼前、しかも休日なのでそれなりに人がいる。完全に注目の的になってしまっていた。はたから見たら、カップルがじゃれ付いているように見えるのだろう。だが、サンとの関係は約二十分ほど前に出会った見知らぬ少女でしかない。俺が一方的に忘れている可能性もまだ残ってはいるが。
しばらくすると満足したのか、勢いよく立ち上がり手を差し出した。俺を立たせてくれるらしい。手をつかみ立ち上がると、サンはまた駆け出した。と、またすぐに帰ってきた。手にはソフトボールが握られている。周りを見渡しても持ち主のような人はいない。大方、遊んでいて持ち帰るのを忘れた物だろう。
「キャッチボールしましょう!」
川原に来てからサンのテンションがうなぎ上りで天井知らずなのだが大丈夫だろうか。すぐへばってしまいそうだが、まぁそれもいいか。
相変わらず俺の返答を聞かずにサンは二十メートルほど離れて飛び跳ねていた。
「投げますよー」
グローブなしでその距離は中々手が痛そうだと思ったが、残念なことにサンの投擲能力は低いようだった。上へ高く舞い上がったソフトボールは俺とサンの真ん中あたりに墜落し、二度、三度と跳ねて停止した。あの様子なら取ることもうまくはないだろうと思い五メートルほどまで近づいた。
「ほらっ、しっかり取れよ」
俺はボールを真上に軽く投げる。サンは両腕を振り回しながら落下点に入ったが、キャッチすることができず、ボールはサンの髪の尻尾を掠めて地面で跳ねた。
「……難しい」
「いや、そんなことないから」
この程度子供でもできることだ。サンは思ったよりどんくさいみたいだ。キャッチに悪戦苦闘しながらも距離の近いキャッチボールは続いた。軽くほおってやったボールをキャッチするたびにサンは飛び跳ねて喜んだ。たまにとり損ねて顔面強打して瞳に涙をこんもり溜めたりしていたが。
三十分位はキャッチボールをしていただろうか、肩が少し疲れてきた。運動不足だろうか、筋トレでもしたほうがいいかもしれない。一方サンはまだまだ元気が有り余っているようだったが、飛んできたボールを投げ返そうとすると、サンはお腹を押さえてこっちを見ていた。
「どうした? 痛いのか?」
「兄さん、お腹がすきました」
俺も朝から何も食べていないので腹が減っていた。時間も昼食時になっていることだし、何か食べに行くことにしよう。サンはお金を持っているのだろうか。まぁいい、奢ってやるとしよう。
「何が食べたい?」
「お肉!」
よだれをたらしそうな勢いで食いついてきた。ざっくばらんな答えだが、ファミレスあたりが妥当だろうか。俺の財布にも優しいし、好き嫌いがあるような感じじゃなさそうだ。
「なら少し待ってろ、車を出してくる」
「いい、歩いていこう?」
「結構時間がかかるけどいいのか?」
「大丈夫、我慢できます」
飲食店まで行こうとしたら徒歩だと三十分以上かかる。車を使うとそのあと移動が難しくなるし、サンが言いというならしかたないか、とことん付き合ってやるって決めたわけだし。
サンの腹の虫が犬が甘えるような音を鳴らし続けながらも、なんとかファミレスに到着した。休日なので人が多いかとも思ったが、歩いて時間をかけたのがよかったみたいだ。程よくすいている。二人用の席に向かい合わせで着席する。メニューを開いて何を食べるか吟味する。サンはステーキのページを穴が開きかねない勢いで凝視している。そんなに好きか肉。
「好きなもの頼んでいいからな」
「決めました。これにします」
そういって指差したメニューは、ボリュームたっぷりのステーキセット。分厚いステーキの横にハンバーグまでついている。お腹が減っている俺でも胸焼けしそうな写真だったが、これ以外目に入っていないようだ。もしかしたら勢いだけで残してしまうかもしれないので、俺は軽めにミートソーススパゲティにすることにしよう。
残すかもしれないという心配は食べ始めた瞬間に崩れ去った。サンの食べる勢いはすごかった。一枚の分厚いステーキを切り分けることもせず、フォークで突き刺してかぶりついている。ものの数分もたたないうちに皿の上のものは綺麗さっぱりなくなった。
「ごちそうさまです。どうしたんですか兄さん? 要らないなら私が食べますよ?」
「まだ入るのかよ。そんな細い体してるくせに、どこに収まってるんだ。あと、あげない」
一般女子が食べる量の二倍はありそうなメニューだったが、サンには少し物足りないようだった。食べ終わってから俺のスパゲティを物欲しそうに見つめている。俺は食が細い。入らないことはないがここからは少し無理をするレベルだったので、サンに残りをあげることにした。
「ほしいのか?」
「ほしい! 食べたい! チュルチュルしたい!」
「飛び散るからチュルチュルはやめとけ。ほら、残り食べていいぞ」
「ありがとう!」
皿を受け取ると、サンはまるで掃除機のような勢いでスパゲティをすすり上げた。ミートソースが口の周りにべったりついている。マナーよく食べろとか言うつもりはないが、これはさすがにはしたなすぎる。
「ごちそうさま!」
「サン、動くな」
「むぅ、むぐぐ」
少し乱暴に口の周りを紙ナプキンでぬぐってやる。はじめこそ嫌そうに顔を背けたが、すぐにおとなしくなった。まるで子供のようなやつだな。犬のサンもよく食べて、口の周りを汚すやつだったな。考えれば考えるほどそっくりなやつだ。同じ名前で呼んでるからそう感じるんだろうか。
会計を済ませ外にでるとまたもやサンがしがみ付いてきた。犬のようなじゃれ付き方につい、頭を撫でた。気持ちよさそうに喉を鳴らしながら、されるがままのサンを見ていると心が落ち着いた。
目的もなく歩いていると、ペットショップの前でサンが腕を引いてきた。
「入りましょう」
できれば今は遠慮したかった。とてもじゃないが今ペットを飼う気にはなれないし、持ち直してきた気分もまた沈んでしまいそうだったから。しかし、サンはそんな心情などしらない。返答も聞かず俺を引っ張っていく。この様子なら事情を知っていても関係なく連れて行かれそうだな。
「いらっしゃいませー」
「おおー」
サンは目を輝かせてケージに入っている子犬を指で突っついていた。その様子を見ていた店員がサンと何か話している。おそらく直接抱いてみるかどうか聞かれているのだろう。サンは目を輝かせたまま大きく頷いていた。店員はケージの鍵を開けて中からチワワの子犬をサンに手渡していた。おっかなびっくりと受け取ったサンだったが、抱き上げるとすぐに額をこすりつけてじゃれあっていた。
「兄さん、小さい、可愛い、暖かい!」
「そーかい。よかったな」
こいつは興奮すると言葉がぶつ切りになるな。喜んでるならいいか、俺も何か抱かせてもらおうか。いや、やめておこう。あの暖かさに触れたらみっともなく涙を流してしまいそうだ。
「兄さん? この子達嫌い?」
「そんなことはない。可愛いと思うぞ」
「じゃあ、はい!」
俺の前にチワワが差し出される。抱けということだろう。つぶらな瞳に俺が映っている。チワワを受け取るとすっぽり俺の腕の中に納まった。暖かい。命の鼓動を感じる。やっぱり駄目だ。涙が止まらない。
――サン。何で死んじゃうんだよ。俺、寂しいよ。
一度決壊したダムは簡単にふさがらなかった。とめどなく涙を流していると周りがざわつきだした。それはそうか、男が子犬を抱いていきなり泣き出したのだ。みんな驚くだろう。
「ごめんなさい兄さん。そんなつもりじゃ」
「いい、なんでもないんだ。そう、なんでもない」
チワワを店員に返し、二人でペットショップを後にした。サンはなにやら落ち込んでいた。俺が泣いたのは自分のせいだとでも思っているのだろうか。悪いのは吹っ切れない俺だというのに。
「ごめんな、せっかく楽しんでたのに俺がぶち壊して」
「いいの。兄さんも楽しんでくれなきゃ意味がないから」
それから二人とも会話もなく、ただ歩き続けた。どこに向かっていたのかもわからない。ただ道なりに歩いた。立ち止まると泣き崩れてしまいそうだった。サンも何も言わずに後ろについてきてくれている。ふと周りを見てみると、帰巣本能でも働いていたのだろうか、自宅前にたっていた。これ以上は無理だ。俺は無言のまま自分の部屋に戻った。サンは、ついてこなかった。
いつの間にか眠っていたようだ。ベッドに倒れこむようにして俺は寝ていた。時間は夕刻になり、空はオレンジ色に染まっていた。サンがもしかしたらいるんじゃないかと思ったが、部屋には俺しかいなかった。
インターホンが来客が来たことをせわしなくアピールしている。二度、三度と鳴るが家には誰もいないようだ。俺が出るしかない。扉を開けるとそこには少し寂しそうな表情をしたサンがたっていた。
「今日は最後まで付き合ってやれなくてすまなかったな」
「兄さん、話があるの」
サンはそう言うと、墓のほうに足を進めた。しゃがみ込み墓標を撫でながらサンはしゃべり始める。
「ここにね。私が眠ってるんだよ?」
「……サンのこと知っていたのか?」
「ううん、そうじゃないの。ここに埋まっているのは私」
「……なにをいって」
「もう、わかってるでしょう? 太陽兄さん」
俺の名前をなぜ知っているんだ。その言葉は声には出なかった。そんなおとぎ話みたいなこと現実にあるわけがない。でも、コイツから感じた心地よさはサンを彷彿とさせるものばかりだった。
「本当にサンなのか?」
「兄さんが今の私にもその名前で呼んでくれたのは本当に嬉しい。兄さんに名前を呼ばれると胸が暖かくなるわ。姿形が変わっても心は繋がっているんだって思った」
「何で最初に言ってくれなかったんだ!」
「約束だったから、それに、そんなこと話ても信じてくれなかったと思うから」
「……これからも一緒にいられるのか?」
「……ううん。もうそろそろ時間。本当は兄さんが落ち込んでるのを慰めるために来たのにね。兄さん私が死んでも泣かないって言ってたのに、泣いちゃうから心配してきたんだよ? 結局私が楽しんだだけだったけどね。ペットショップに行ったのも兄さんが元気になってくれるかなと思ったからだったんだけど、失敗だったね」
さびしそうにはにかんでいるサン。そんな顔するなよ。今日は泣いてばっかりだ。また溢れてくる。一生分は泣くんじゃないだろうか。今はまともしゃべれそうにない。いいたいことはいくらでもあるのに。
「だから、私が消える前に精一杯慰めてあげるね。私兄さんに抱きしめられるのが好きだった。とっても暖かいの」
――暖かかったのはお前だ。
「散歩して、ボールで遊んでもらうのも楽しかった。今日のキャッチボールもとっても楽しくて、幸せな気持ちだった」
――俺だって楽しかった。
「いつもご飯を用意してくれるのも兄さんだったね。口を拭かれるのはちょっと嫌だったけど、怒られちゃうもんね」
――お前はだらしないからな。
「兄さんと一緒に寝るのも大好きだった。煙草の臭いは嫌だったけど、それでも兄さんが大好き」
――俺もお前のことが大好きだ。
「ずっと、一緒だったね。二十年の時間、私はいつも満たされていた。兄さんにお父さん、お母さん。私は犬だったけど、間違いなく家族の一員だった。みんな優しくて、楽しい思い出ばっかりだよ」
――当たり前だ。お前は家族なんだから。
「だからね。悲しまないで。私は十分生きたの。とっても幸せで、暖かくて、気持ちのいい二十年だったんだから。後悔も、未練も、何もない。兄さんなら笑って送り出してくれるよね」
サンが俺に近づく。涙でグシャグシャになっている顔を腕で強引にぬぐう。これ以上かっこ悪いところは見せられないよな。吐息が触れ合うほど近づき、サンは俺の涙の後をペロリと舐めた。
「かっこいい顔が台無しよ兄さん。後七十年は生きてね。空からずっと見てるから。私のこと忘れないでね。あ、あと煙草はやめて。私あれ嫌い」
そういって俺に満開の笑顔を見せてくれた。また涙が流れそうだったが、今度は堪えた。サンの姿はもう夕日の姿と同化して薄れてきてしまっている。時間がもうないのだろう。
「ほら兄さん、笑って。私達は太陽なんだから、笑顔でいましょう? 今日は特別な日だから。最後はこの言葉にするね。兄さんハッピーバースデー二十歳おめでとう」
その言葉を最後に、サンは夕日と一緒に溶けて消えてしまった。墓の横には朝キャッチボールしたソフトボールが鎮座していた。俺はそれを拾い上げ墓に向けて言った。
「ハッピーバースデー俺の家族で妹のサン。俺今笑えてるか? 安心したか? お前の言うかっこいい兄さんになれてるか?」
涙は流さなかった。俺が情けない顔をしていると妹が心配する。
こうして、俺とサンの二十歳の誕生日が終わった。
あれから、七十五年の時が過ぎた。普通に大学を卒業し、就職をして結婚をし、子供を授かり、生涯を終えた。変化のない日々ではあったが、幸せな時間を俺も過ごした。サン、お前の言うとおり長生きしてやったぞ。今から妻に会うついでにお前にも会いに行ってやる。楽しみに待ってろよ。そうしたらまた、家族で集まって悠久の時を過ごそう。俺達はみんな家族なんだから、遠慮なんていらない。
「久しぶり、兄さん」
「ほらっ、しっかり取れよ」
俺は握られていたソフトボールを真上に軽く投げた。
読んで頂いた方、お疲れ様でした。
何度か読み返してはいますが、誤字脱字があったらすいません。
もし、ペットを飼っている読者様がいるなら、大事にしてあげてください。