1章~迷子~
辺りは鬱蒼と生い茂る樹木によって薄暗かった。
僅かに光は差し込んでいるのだが、光源である太陽の方向はよくわからない。
といっても、既に方向の感覚など全くなく、現在地もわからないこの状況で太陽が見えたところでもう手遅れである。
これでは帰りの道の当ても付けられないし、それ以前に目的地にすら辿りつけないかもしれない。
視線を辺りの樹木から足元へと向けると、先ほどまであった筈の道がなくなっていた。
(いや、それでも僕が今歩いていられるってことは、ここも獣道か何かには違いないけど)
そんな風に思考を回しながらも、彼は歩き続けていた。
まだ夜になるには早い気がしたし、何より立ち止まって自分が完全に迷ったと確認するのが怖かったのだ。
そもそも道が分からなくなった時点で迷子は確定なのだが、今の彼はそんなことを気にしていなかった。
当面の行動は決定している。
(歩き続けて、どこかで館の住人に遭遇できれば)
そう、今現在の彼の目的はそれである。
『館』というのは彼の目的地なのだが、既に彼はそこを目指すのを諦め、そこに住んでいるであろう誰かに会うことを期待していた。
確かに確率が皆無とはいえないが、目的地と現在地との距離が不明である以上可能性は低いだろう。
しかしそれでも彼は歩みを止めず、一縷に可能性を信じた。
あるいはその祈りが届いたのか。
「どなたですか?」
不意に目の前の薄暗い茂みから年若い女性の声がした。
(助かった)
聞こえたその一言で一気に安堵したのか、彼はようやく足を止めるとその場に座り込んでしまう。
そこへ太陽の光を伴って茂みから人影が現れた。
「・・・珍しいですね。こんなところに観光ですか?」
それは青い着物姿の少女だった。
肩口辺りで切りそろえた黒髪に、気の強そうな瞳が印象的である。
口調は丁寧だが、明らかにこちらへの不信感をにじませる口調で少女は彼に問いかけた。
「よかった。・・・玖代館の方ですか?」
しかし彼の方はそんな少女の不信感に気づかなかったのか、それとも気にしていないのか、安堵の表情を隠そうともせずに少女に問いを返す。
「尋ねたのは私です。・・・観光ですか、と聞きました」
彼の態度に少々むっとしたらしい少女は、それでも平常を装った声音で再度彼に問う。
彼は苦笑して立ち上がった。
「すみません。人に会えた安心感でつい。・・・僕は葛木と言います。こちらには知人に呼ばれまして、玖代館に向かっているところだったのですが」
彼、葛木がにこやかに答えると、少女は目を見開いた。
「それでは貴方が岸間先生の?」
「ああ、そうです。岸間さんをご存知ということは」
「申し遅れました。私、玖代弐羽と申します。すみません、岸間先生からは近いうちにお客様がお見えになるとしか伺っていなかったものですから。ご連絡いただければ人を遣りましたのに」
身元が保証されたことで弐羽と名乗った少女から不信感は消え、今度は呆れたような微笑みが葛木に向けられる。
「いえ、岸間さんには、ちゃんとした道があるから迷うことはない、と聞いていたんです。それなら、僕は直接招待を頂いたわけではありませんから、わざわざ呼ぶのも失礼かと思って一人で山に入ったんですが」
「道に迷って歩き回っていたんですか?・・・もう、岸間先生の招待を認めたのはこちらなんですから、貴方は立派に玖代家のお客様です。遠慮なんてなさらないでください。家の近くで野垂れ死にされたほうが迷惑です」
弐羽が冗談めかして言うと、葛木は照れくさそうに笑った。
「それも、そうですね。・・・じゃあ改めて、道案内をお願いしてもいいですか?」
「ええ、かしこまりました」
葛木の問いに弐羽は綺麗に微笑んだ。