それでも君は歯車のように回りつづける ~死諸葛走生仲達~
きりきり。
かりかり。
指南車という絡繰が動いている。
司馬懿は、曹叡(魏の明帝)から、この指南車を下賜されていた。
それを今、作った馬鈞が動かしていた。
「不思議なものだ」
神話の時代、黄帝が蚩尤を討つ時に使ったという絡繰だ。
この絡繰がは車の上の人形が、常に南を指し示す。
この指南車により、黄帝は蚩尤の作り出す霧を突破することができたというが、司馬懿の時代――三国時代においては、想像の産物とされていた。
しかし馬鈞は、
「あったはずだ」
と言った。
それが曹叡の耳に入り、
「では作ってみせよ」
と命じた。
馬鈞はすぐに指南車を作り上げた。
馬鈞は機織り機や投石器の改良で鳴らした男であり、たとえ作った者がいなくても、理屈さえわかれば作れると語った。
*
「指南車は中に入っている歯車が噛み合って動き……」
馬鈞は口下手だった。
しかし図面を引いてくれたので、言わんとすることはわかった。
丸い木の板の周囲の辺にあたるところに、ぎざぎざになるように加工を施し、あたかも歯が生えたようにする。
それを歯の車──歯車といい、この歯車同士が噛み合う。それは垂直に噛み合う場合もあるが、それらが噛み合った状態で回って、車がどう動いても、人形が常に南を指差すという絡繰だ。
「成る程」
魏は建国者の曹操以来、「唯才」で人を評価する。
たとえ口下手であっても馬鈞は技術者としての「才」を有する。
だから先生と呼ばれていた。
「で、先生は、蜀の連弩を、五倍良くしてみせると」
連弩とは、たとえば三連休むことなく撃てる、連発式の弩である。
三国志の魏志方技伝によれば、馬鈞は蜀の丞相・諸葛亮が作った連弩を評価したが、自分ならば五倍良いものができると語った。
曹叡はそれを聞き、その年――西暦二三四年の春、蜀が五度目の北伐に出た時、司馬懿を春の宵の宴に招いた。
曹叡は宴の席で司馬懿に指南車を与え、馬鈞を紹介した。
その上で出陣を命じた。
「蜀を押さえよ。そして、より新しい連弩を手に入れ、馬鈞に与えよ」
と、付して。
かくして司馬懿は征旅に出て、蜀が攻略を目指す長安に行き、そこからさらに西――渭水へと向かった。
世にいう五丈原の戦いである。
*
この時の蜀軍は十万といわれる。
大して魏軍は二十万を数え、数字の上では魏が有利だったが、諸葛亮は五丈原を本営とし、そこから攻撃先を北へ西へと巧みに変え、司馬懿を翻弄した。
それでも司馬懿は麾下の郭淮に一軍を与えてそなえたため、ことなきを得た。
「倍の兵を揃えたおかげだ」
司馬懿は気負うことなくそう言った。
諸葛亮の恐ろしさが身にしみているからこそ、こうして蜀軍の倍の二十万を用意した。
「いかに用兵が巧みであろうと、数には勝てぬ」
そう判じて戦力を整えて戦場に臨み、翻弄されようとも、立て直すだけの対策を練る。
それができる司馬懿は、間違いなく良将といえた。
「されど連弩が手に入りませぬ」
その馬鈞の愚痴に、司馬懿は苦笑した。
馬鈞は、連弩の連発のしかけに不満があるらしく、蜀軍最新の連弩を見ればわかりそうだという。
「これほどの連弩を作った者ならば、うまくする方法を思いついているはず」
馬鈞も「うまくする方法」を思いついているが、答え合わせがしたいらしい。
司馬懿は早く鹵獲するように努めると答えた。
「何しろ諸葛亮は用兵が巧みで、その辺のものを渡さぬようにしよるのでな」
その用兵は、諸葛亮一流のもの。
誰にも真似できるものではない。
司馬懿はそう思っていた。
*
五丈原は、鳥瞰すると、秦嶺山脈を背にした台地で、その名の由来は一番狭いところで五丈しかない原野、ということから来る。
その五丈原に諸葛亮は田を作り、耕作を──屯田を始めた。
屯田は、兵に農作業をさせることにより、農民として根づかせ、食糧を確保し、その土地を今後も領地として経営していくやり方で、かつては魏の曹操も採った方策である。
「蜀は持久戦をするつもりだ」
耕作には月日がかかる。
今、この五丈原でそれをやられると、魏軍としてはそう思わざるを得ない。
「攻めかかるべきでは」
司馬懿は麾下の諸将から、何度もその進言を聴いた。
しかし司馬懿は攻めなかった。
「勅命は『押さえよ』だ。あの孔明(諸葛亮の字)が持久だと? 毎回、虎が爪突き立てるように攻めてきた男が? 何かある」
これを聞いた諸将は、「仲達(司馬懿の字)は老いた。臆病になった」と陰口を叩いた。
「陰口ぐらいはかまわんが、暴発されても困るな」
そこで司馬懿は一計を案じ、曹叡に攻撃の許可を上奏した。
案の定、「不可」と回答が来た。
それも、辛毗という硬骨漢を寄越して答えた。
これにより諸将は、辛毗の見張りがあるので、こっそりと出撃するわけにもいかなくなった。
*
五月。
動きがあった。
呉に。
呉の皇帝・孫権は、みずから兵を率いて北上し、魏に攻めかかった。
蜀との戦いに傾注していた魏としては、不意を突かれたかたちとなった。
「孔明め、これを狙って五丈原で粘っていたな」
司馬懿の陣中で、そんな声が囁かれた。
しかし孫権の大規模な攻撃に対し、魏は果敢に戦った。
まず、合肥にいた満寵が、奇襲によって孫権の鼻面に一発喰らわせた。
「味な真似を」
孫権は軍の立て直しを命じたが、そこで魏の次の一手を知る。
「曹叡みずからだと?」
この時、曹叡は孫権討伐にみずから軍を起こし、出陣した。
孫権は舌打ちし、軍を返した。
魏の皇帝親征となると、よほどの大軍となる。
そんなものにあたるほど、孫権は愚かではなかった。
かくして、呉は矛を納め、同時に、おそらく諸葛亮の期したであろう二正面作戦は潰えた。
*
結局のところ魏は、蜀と呉を合わせたよりも上の国力を持っている。
であれば、持久戦に持ち込めば勝てる。
それは自明の理であり、曹叡もそれにしたがっている。
「しかし、引っかかる」
司馬懿は、曹叡が採っている持久という姿勢に文句をつけるつもりはない。
だが、それならば、なぜ諸葛亮はその持久のかまえを取っているのだ。
「引っかかるな」
司馬懿は郭淮に五丈原の蜀軍を調べよと命じた。
戦うのかと辛毗が詰ったが、そうは言っても、ことあらば攻めることは大将軍(司馬懿の官職)の裁量であると答えた。
*
郭淮の調べは実を結んだ。
諸葛亮は病を得ていた。
試みに司馬懿が蜀からの軍使に探りを入れると、どうも事実らしい。
つまり、戦うには体力が無かった、というのが真相だった。
「だとすると面妖」
呉を動かしての二正面作戦も、その病のゆえだというのはわかった。
わかったが、そもそも北伐自体をやめておいた方が良かったのでは。
「死病か」
だからこそ、死ぬ前に一度、魏に圧力を与えておきたかったのか。
そうすればそれだけ、ほんのわずかの間だが、魏は蜀に攻めるのをためらうだろう。
「いや待て」
何か見落としている。
何か。
悩んでいると、馬鈞が連弩はまだかと聞いて来た。
司馬懿は苦笑した。
*
諸葛亮が死んだ。
五丈原が騒然としている。
「悪いが、ひとあたりするか」
それは誰に対してか。
諸葛亮か曹叡か。
司馬懿は明言せずに出陣した。
辛毗はとがめるような目をしたが、何も言わなかった。
「とにかく、蜀の様子を見定める」
あるいはこうすれば、なぜ諸葛亮が死にあたってこのような北伐をしたのかがわかる。
そんな気がした。
*
逸る諸将を抑える方が負担。
そんな出撃だった。
合戦ではなく出撃というのは、司馬懿がほぼ奇襲のようなかたちで五丈原に攻め入ると、蜀軍は整然と後退し、五丈原の五丈しか幅の無い地点まで来るとぴたりと止まり、迎撃の姿勢を見せた。
「止まれ」
司馬懿は全軍に停止を命じた。
大軍を受けるには、狭いところに限る。
兵法の定石であり、理にかなっている。
「退くぞ」
司馬懿は馬首を返し、退却した。
何か、空恐ろしいものを感じる。
途中、蜀軍の陣の跡地を見たが、整然としたもので、竈など、どれも同じように作られていた。
ただ、さすがに司馬懿の出撃が急だったので、物資は残されていたが、それも綺麗に積まれていた。
郭淮にその鹵獲を命じ、司馬懿は先に本陣へと戻ったが、ある思いにとらわれていた。
「何だろう、この感じ」
戦っていないというのに、まるで負けたかのような、この感じ。
その思いに司馬懿はとらわれていた。
*
蜀は諸葛亮の死を公表し、喪を発した。
司馬懿麾下の諸将は、やはりあの時攻めるべきだったのだと口々に語った。
そうこうするうちに郭淮が戻り、諸葛亮の後継者・蒋琬が、こういう言葉で司馬懿を揶揄した、と報告した。
「死諸葛走生仲達(死せる諸葛、生ける仲達を走らす)」
のちに「死せる孔明、生ける仲達を走らす」として伝えられる言葉である。
司馬懿はそれを聞いて、何かあると思った。
「蒋琬は手堅い男と聞く。そんな男が揶揄なんかするか」
ふと見ると、本陣の隅で馬鈞が喜んでいた。
郭淮から、蜀陣に残されていた連弩を渡されたからだ。
「ああ凄い。やはりこうしたか、連発のしくみを。やはり孔明は凄い。凄い人で……」
「天下の奇才」
司馬懿がそう言うと、馬鈞はそうだそうだと喜んだ。
馬鈞は、工房に送るために、さっそく図面を引くと、本陣を辞した。
「……そうか」
諸葛亮は図面を引いたのだ。
自分がいなくても、戦えるように。
だからこそ、その後継者たる蒋琬は、あのような言葉を言った。
それは揶揄のようにも思えるが、聞く人にとっては――特に司馬懿にとっては、むしろ匕首を突き付けられたような気持ちになる。
諸葛亮は、自身が死んだとしても、敵を退けられる――そんな図面を引いたのだ、と。
だからその図面にしたがって、あのような迎撃の態勢が取れた。
「……まさに天下の奇才だな」
それは指南車の歯車のように回り、蜀を動かしていくのだろう。
このような蜀とあたるのは、得策ではない。
「帰ろう」
司馬懿は洛陽に帰ることにした。
途中、蒋琬の言葉を用いてはやし立てる人もいたが、司馬懿は意に介さなかった。
ただ馬鈞には、
「生きていればそんな図面を引かせなかったが、死んでしまったのならもういけない」
と言って苦笑した。
【了】




