愛さないと言ったのは貴方ですが
結婚初夜、というものは、もう少し甘やかな空気に包まれているものだと思っていた。
少なくとも、教会で永遠の愛を誓った相手に、開口一番こう言われる想像はしていなかった。
「予め言っておく。私は君を愛することはない」
アースベルグ公爵——リュシアン・ド・アースベルグ。
北方領を治める名門貴族の当主であり、社交界では"氷の公爵"と恐れられる男。銀灰色の髪に、同じ色の冷たい瞳。今日初めて間近で見た彼の顔は、確かに彫刻のように整っていて、確かに彫刻のように冷たかった。
「互いに干渉しない。それだけ守ってくれれば、不自由はさせない」
寝室の重厚な扉を背にして、リュシアンは腕を組んだまま私を見下ろす。
声は低く、揺るぎがない。まるで領地の税制改革でも告げるような事務的な口ぶりだ。おそらく本人にとっては、実際そのくらいの重みなのだろう。
——けれど。
私はそんな宣告を聞き流しながら、別のことを考えていた。
青白い肌に、うっすらと脂汗が滲んでいる。さきほどの披露宴で浴びるように出された料理——こってりとした鴨のコンフィに、バターをたっぷり使ったグラタン、濃厚な赤ワインソースのかかった牛肉の煮込み。おまけに社交辞令で交わされた乾杯は数えきれない。
貴族の披露宴というのは、胃袋にとって戦場である。
そして今、目の前の"氷の公爵"は、その戦場で明らかに敗北していた。
シャツ越しに胃のあたりを押さえている。腕を組んでいるつもりらしいが、左手の長い指が微かに腹部を庇うように当てられているのが、私の目にははっきり見えていた。
威圧的な夫の冷酷な宣言。
——ではなく。
胃もたれで限界の病人が、虚勢を張っている。
それが、私の夫に対する第一印象だった。
「……聞いているのか」
黙ったままの私に、リュシアンが眉をひそめる。怒っているというより、反応がないことに戸惑っているようにも見えた。泣くか、怒るか、何かしらの感情を返されることを想定していたのかもしれない。
残念ながら、実家の伯爵家で五人きょうだいの真ん中として揉まれてきた私には、この程度の言葉で取り乱す繊細さは残っていなかった。
「承知いたしました」
一言だけ告げて、私は踵を返す。
隣の部屋に用意された私用の寝室に入り、手早く寝間着に着替える。ベッドに潜り込むと、上質なリネンのシーツがひんやりと心地よかった。
知らない屋敷。知らない部屋。知らない寝具。そして知らない夫。
不安がないと言えば嘘になる。けれど、今夜考えたところでどうにもならないことは、明日以降に回すに限る。これは長女に家督を継がせるために次女の私を差し出した実家から学んだ、数少ない処世術だった。
それに——あのひどい顔色は、少し気になった。
明日、厨房の様子を確認しよう。
そう決めて、私はぐっすりと眠った。
初夜の感想は、「シーツの肌触りが良い」。以上である。
* * *
嫁いでから数日が経った。
リュシアンとの接点はほとんどない。朝食は時間をずらして取り、彼が執務室に籠もっている日中に屋敷を把握する。使用人たちは必要以上に親切で、必要以上に同情的だった。それだけで、この屋敷における"公爵夫人"の立場がどういうものか、おおよそ察しがつく。
ただ、ひとつ。私にとって重大な発見があった。
この屋敷の厨房は、恐ろしいほど"重い"料理ばかり作る。
朝食にバターで焼いたソーセージ三本。昼食にクリーム煮。夕食にワイン煮込みの塊肉。料理長の腕は確かだが、味付けの方向性が一様に濃厚で脂っこい。先代公爵の好みをそのまま引き継いでいるらしかった。
——そりゃあ、胃も壊す。
あの初夜の青白い顔が脳裏をよぎった。そもそもが胃腸の弱い体質なのだろう。にもかかわらず、領主として社交の宴席は断れない。加えて毎日の食事がこれでは、胃にとっては年中無休の拷問である。
同情は、した。けれど「干渉するな」と言われている以上、表立って口を出すつもりもない。
私はただ、自分のために夜食を作ることにしただけだ。
深夜。屋敷が寝静まった頃、私は厨房に降りた。
鶏の手羽先をじっくりと水から煮出す。灰汁を丁寧に引き、透き通った黄金色のスープだけを取り出す。そこに薄切りの生姜をひとかけ。塩はほんの少し。脂はすべて掬い取り、最後に残るのは、鶏の骨から滲み出た純粋な旨味と生姜のすっきりとした香りだけ。
極限まで削ぎ落としたクリアスープ。
祖母から教わった、胃が弱ったときの定番だった。五人きょうだいの誰かが体調を崩すたび、祖母はこのスープを作ってくれた。派手さはない。けれどからっぽの胃にするりと沁みて、身体の内側からじんわりと温めてくれる。
カップに注ぎ、ふうふうと冷ましながら一口飲む。
——うん、いい出来。
そう思った矢先だった。
厨房の入り口で、かすかな足音がした。
「……何をしている」
振り返ると、そこにリュシアンが立っていた。
寝間着姿。いつもの威圧的な軍服や礼装ではなく、白いシャツに緩いズボンという格好は、昼間より幾分か若く見える。
そして——やはり、顔色がひどい。
目の下に隈がうっすらと浮かび、唇の色が薄い。胃痛で眠れなかったのだろう。厨房の明かりに引き寄せられてきた、というところか。
「夜食を作っていました」
「……こんな時間に?」
「眠れなかったので」
嘘はついていない。
リュシアンの視線が、私の手元のカップに移る。湯気の向こうで、生姜の穏やかな香りが厨房にふわりと広がっていた。
彼の喉が、小さく鳴った。
「胃に優しいものです。よろしければ」
差し出すと、リュシアンは反射的に一歩引いた。
警戒している。毒を盛られるとでも思っているのか——いや、政略結婚の相手に対する反応としては、むしろ正常かもしれない。
「私が先ほど一口飲みましたので」
事実だけを告げる。つまりは安全だという証明。
それだけの意味で言ったのだけれど、リュシアンは一瞬、妙な間を置いた。
灰色の瞳が私の唇と、カップの縁を、交互に見たような気がした。
——気のせいだろう。
しばらくの沈黙のあと、リュシアンは無言でカップを受け取った。
一口、含む。
彼の喉が動いた。
それから二口目を飲み込んだとき、ぴんと張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。
飲み終えたカップを、リュシアンが返す。
受け取った拍子に、彼の指先が私の手に触れた。
ほんの一瞬。けれど、厨房に来たときよりも明らかに——指先が温かかった。
「……ごちそうさま」
ぼそりと呟いて、リュシアンは背を向けた。
足音が廊下の闇に消えるまで、私はカップを両手で包んだまま立ち尽くしていた。
彼の指の温度が、なかなか消えなかった。
* * *
翌朝。私は少し早起きして、厨房を訪ねた。
昨夜の鍋を片付けるためだったが、ちょうど朝食の仕込みをしていた料理長のハンスと鉢合わせた。恰幅の良い初老の男で、先代公爵の時代から三十年この厨房を守ってきたという。
「奥様、片付けなんぞ使用人にお申しつけくだされば」
「いえ、自分で使った鍋ですから。——それより、ハンスさん。少しお聞きしてもいいですか」
切り出したのは、献立の話だった。
ただし、リュシアンの食事を変えてほしいとは言わない。干渉するなという約束は守る。私はあくまで自分の食事の相談をしただけだ。
「実家では朝は軽めだったもので……。私の分だけ、蒸した野菜とスープ、パンくらいにしていただけませんか。バターは控えめで」
ハンスは面食らったようだったが、新しい主人の妻の願いを断る理由はない。翌朝から、私の朝食だけが明らかに軽くなった。
蕪を柔らかく蒸したもの。薄切りのパンに、ほんの少しのバター。温かいハーブティー。
それを食堂で食べていると——たまたま朝食の時間が重なった日、リュシアンが私の皿をちらりと見た。
自分の前にある、バターでこんがり焼いた厚切りベーコンと、クリームたっぷりのスクランブルエッグと、私の前にある蒸し野菜のスープ。その落差を、彼は何も言わずに見比べていた。
——何も言わなかった。
けれど翌週、ハンスが困惑した顔で私のところに来た。
「奥様。旦那様から、朝食の量を減らせと仰せつかりまして」
「あら」
「ベーコンは要らん、スープを出せ、と。……旦那様がご自分の食事にご注文をつけたのは、お仕えして以来初めてのことで」
私は何も指示していない。リュシアンが自分で選んだのだ。
隣で食べている私の食事を見て、こちらの方がましだと判断した——それだけのこと。
それを聞いたとき、少しだけ、嬉しかった。理由は深く考えないことにした。
* * *
次の夜も、リュシアンは来た。
その次の夜も。またその次の夜も。
いつからか、それは暗黙の習慣になっていた。
深夜、私が厨房に立つ。鍋に火をかけ、スープを仕上げる。日によって中身は少しずつ変えた。蕪と白味噌のポタージュ、ほうれん草と豆腐のあっさりしたスープ、とろとろに煮た大根と鶏つくねの澄まし仕立て——いずれも脂を極力抑えた、胃に負担をかけないもの。
しばらくすると、廊下から足音が聞こえる。
最初の頃は忍び足だった。それが日を追うごとに、ためらいのない普通の足音に変わっていった。
リュシアンは何も言わずに厨房の椅子に座る。私は黙ってカップを差し出す。彼がスープを飲む。
言葉はほとんど交わさない。鍋をかき混ぜる音、スープをすする微かな音。それから時折、窓の外を通り過ぎる夜風の音。それだけが厨房に満ちている。
不思議なもので、沈黙は気まずくなかった。
むしろ、ここだけ時間の流れが違うようだった。昼間の公爵邸には格式があり、作法があり、使用人たちの目がある。けれど深夜の厨房には、何もない。肩書きも、政略結婚の事情も、あの初夜の冷たい宣告さえも——湯気と一緒に、天井の向こうへ溶けていくような。
* * *
変化は、昼の食卓にも及び始めていた。
朝食がスープとパンに変わったのを皮切りに、リュシアンは昼食にも注文をつけるようになった。
料理長のハンスは最初こそ戸惑っていたが、実直な職人気質の人だ。主人が食べるものと食べないものを日々観察し、献立を少しずつ軌道修正し始めた。
「奥様。旦那様は蕪がお好きなようで。ポタージュにすると残さず召し上がります」
「ええ、そうみたいですね」
知っている。深夜にそれを出したとき、空になったカップの底を名残惜しそうに見つめていたから。
けれどそれをハンスに言うわけにもいかない。深夜の厨房のことは、二人だけの秘密だ。
「昼にはコンソメ仕立てのものを出してみようかと」
「いいと思います。生姜を少し利かせると、食が進むかもしれません」
ハンスが嬉しそうに頷く。三十年仕えてきて初めて、主人の好みが分かり始めたのだ。料理人としては張り合いがあるのだろう。
こうして、昼の献立はゆるやかに変わっていった。
重厚な肉料理一辺倒だった食卓に、蒸し野菜や薄味のスープが並ぶ日が増えた。劇的な変化ではない。けれどバターの量は確実に減り、食材の種類は確実に増えた。
私がしたのは、自分の食事を変えたことと、ハンスの相談に応じたことだけだ。リュシアンに直接「これを食べてください」と言ったことは、一度もない。
干渉はしていない。——と、自分では思っている。
* * *
変化は、緩やかだった。
深夜のスープが習慣になって二週間ほど経った頃。以前のような脂汗を見ることはなくなった。けれど顔色が万全かと言えば、まだそうでもない。長年の食生活で傷めた胃は、そう簡単には回復しないのだろう。
一ヶ月が経つ頃になって、ようやく変化が目に見え始めた。
唇に血の色が戻った。目の下の隈が少し薄くなった。何より、昼間の執務中に顔をしかめる回数が減ったと、侍従のマルクスが言っていた。
劇的な快復ではない。でも確かに、少しずつ、この人の身体は楽になっている。夜の一杯だけでなく、朝食が変わり、昼食が変わり、彼自身が重い料理を避けるようになった——その積み重ねが、ゆっくりと実を結んでいるのだと思う。
使用人たちが「旦那様がこの頃お元気で」とこそこそ話しているのを、何度か耳にした。
それ自体は嬉しい。素直にそう思う。
* * *
「……今日のは、何だ」
ある夜、リュシアンの方から口を開いた。
驚いた。彼が自分からスープについて訊いたのは初めてだった。
「かぼちゃです。少しだけナツメグを入れてみました」
「そうか」
それだけ。けれど、カップを受け取る指先が、ほんの少し触れる時間が長くなった気がした。
——気のせいだと思いたい。
思いたいのだけれど、それにしては心臓がうるさい。
顔色が良くなるにつれて——ほんの少しずつ、ではあるけれど——彼の目つきが変わっていた。
氷のようだった灰色の瞳に、以前にはなかった熱がある。じっとこちらを見つめる目が、スープではなく、私自身を映している。
独占欲、という言葉が頭をかすめた。
まさか。いくらなんでも、スープを出しただけで。
——いや。スープだけでは、ない。
朝食の献立が変わったのも。昼の食卓に蒸し野菜が並ぶようになったのも。ハンスが嬉々として新しいスープのレシピを試すようになったのも。リュシアンはきっと、全部分かっている。干渉するなと言ったのに、私が何も言わずに彼の食生活をじわじわと書き換えてしまったことを。
そう自分に言い聞かせていたら、昨夜、彼がカップを返す際に触れた手が——私の手を、一瞬だけ握ったのは、さすがに気のせいでは済まないと思う。
……干渉しないという約束は、どちら側の話だっただろう。
* * *
その夜会は、アースベルグ領の社交シーズンの幕開けだった。
煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが杯を交わす。私はリュシアンの隣に立ち、にこやかに挨拶をこなしていた。政略結婚とはいえ公爵夫人の務めくらいは果たす。この程度の社交術は、五人きょうだいの生存競争で嫌というほど鍛えられた。
問題は、料理だった。
夜会の食卓には、これでもかと豪華な料理が並んでいる。フォアグラのテリーヌ、トリュフソースのかかった仔牛のロースト、バターたっぷりのオマール海老、濃厚なデミグラスソースの煮込み——胃袋を殴りつけるようなラインナップだ。
ちらりとリュシアンを見れば、案の定、フォークを握る手が微妙に硬い。
夜会の料理にうんざりしている夫の胃袋を察することができるようになったのは、妻としての成長と呼んでいいのだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「ねえ、リュシアン様」
甘く媚びた声がした。
見れば、深紅のドレスを纏った令嬢が一人、リュシアンに擦り寄るように近づいてくる。バロック伯爵家の長女だったか。胸元を大きく開けた装いに、艶やかな巻き毛。色目を使うという表現がこれほどぴったりくる人物も珍しい。
「お隣の方は公爵夫人ですの? あら、ずいぶんと……ふふ、お静かな方ですのね」
地味という意味だろう。まあ否定はしない。
「あんな方より、私が最高級のフレンチディナーを手配いたしますわ。シェフは帝都で一番と評判の——」
令嬢は得意げに料理の説明を始めながら、目の前のテーブルから仔牛のローストを一切れ取り、リュシアンの目の前に差し出した。
濃厚なソースが、とろりと皿に光っている。
リュシアンはその肉を見下ろした。
一拍の沈黙。
それから彼は、心の底から嫌悪するような——私でさえ見たことがないほど冷ややかな目で、その皿を一瞥した。
「結構だ」
声には一片の温度もなかった。
令嬢の差し出した手ごと、視界から排除するように顔を背ける。
「私の食事に口を出していいのは、この世にただ一人だ」
令嬢が凍りつく。
——え、今の、誰のこと。
さすがに聞き間違いかと思ったけれど、リュシアンはさりげなく私の腰に手を添えて、令嬢から遠ざけるように半歩移動していた。
周囲がざわめく。氷の公爵が夫人を庇った、という光景は社交界にとって一大事件らしかった。
けれど当の本人は眉ひとつ動かさず、何事もなかったかのようにグラスを傾けている。
ただ——腰に添えられた手が、離れなかった。
* * *
夜会から戻り、ドレスから普段着に着替えて、私はいつもの時間に厨房に降りた。
今夜は、夜会帰りの胃に染みるものがいい。
白葱を細かく刻み、少量のごま油でゆっくり炒める。甘い香りが立ったら鶏出汁を注いで、塩で味を整え、最後に溶き卵をふわりと回し入れる。仕上げにほんの少しだけ黒胡椒。
卵と葱の優しいスープが出来上がった頃——
背後に、気配を感じた。
足音ではない。もっと近い。
振り返ろうとした瞬間、後ろから腕が伸びてきて、私の身体をそっと包んだ。
「——っ」
リュシアンの腕だった。
背中に彼の胸板の温度が伝わる。初夜のあの夜とは比べものにならないほど、温かい体温。
「リュシアン様?」
「…………」
返事はない。ただ腕の力が、わずかに強くなった。
心臓がうるさくて困る。お玉を握ったまま固まっている自分が、ものすごく間抜けだと思った。
「……眠れなくなった」
リュシアンが言った。
——え?
思わず身じろぎする。胃の具合が悪化したのか。最近は調子が良さそうだったのに。夜会の料理がそこまで堪えたのだろうか。
「お腹、痛いんですか」
「違う。胃じゃない」
彼の腕にわずかに力がこもった。
「……君のおかげで胃痛は治った。だが——今度は別のもののせいで、夜が長い」
私は、黙った。
「深夜にここに来るのはスープが目当てじゃない。……いつからか、君がここにいるから来ている」
声が低く、ゆっくりと、一語ずつ選ぶように紡がれる。この人は感情を言葉にすることに慣れていないのだ。それでも、今、必死に言葉を探している。
「君がスープを作っている背中を見ていると落ち着く。厨房が生姜の香りで満ちて、カップの湯気が天井に昇っていくのを眺めていると、一日で張り詰めていたものが全部ほどける。……気がつけば、それがないと眠れなくなっていた」
——この人は、何を言っているんだ。
頬が熱くて仕方ない。お玉を持つ手が震えているのが自分でも分かる。背中越しだから顔を見られていないのが、せめてもの救いだった。
「私は君に対して、『愛することはない』と言った。『干渉するな』とも」
「ええ」
「あれを——」
一拍、間があった。
「全部、撤回させてくれないか」
リュシアンの額が、私の肩口に押し当てられた。声は低いのに、身体は震えていた。
「愛さないと言ったのは嘘だった。——いや、あの時は本当にそう思っていた。だが今は違う」
彼の腕がゆるんだ。
逃がすためではなく、振り返らせるために。
私は鍋から手を離して、ゆっくりと身体の向きを変えた。
リュシアンの顔が、すぐ目の前にあった。
耳まで赤い。灰色の瞳が潤んで揺れている。あの初夜の、すべてを拒絶するような冷たさは、もうどこにもなかった。代わりにあるのは、怖いくらいまっすぐな熱。
「君を愛している。君のそばにいたい。……朝も昼もずっと」
声が震えていた。
氷の公爵と呼ばれた人が、こんな顔をする。こんな声で、こんな不器用な言葉を搾り出す。
——この人をこうさせたのが、一杯のスープなのだと思うと、なんだかおかしくて、泣きそうだった。
「……リュシアン様」
「……なんだ」
彼の声が強張った。答えを怖がっている。この期に及んで。
「——明日からは一緒に朝食を取りましょう」
私は少しだけ笑った。伝わっただろうか——隣にいる、ということ。食卓を共にする、ということ。それが私の答えだということ。
リュシアンはしばらく固まっていた。一度瞬きをして、もう一度瞬きをして——それから、崩れるように笑った。
笑った。
この人が笑うところを、私は初めて見た。
整った顔がくしゃりと歪んで、氷の公爵にはあるまじき、不格好で、幸せそうな笑み。
「……ずるいな、君は」
「その言葉そっくりそのままお返しします」
リュシアンは観念したように額を私の肩に預けてきた。大きな身体を丸めて、まるで甘える大型犬のように。
「さ、先に、今夜のスープを飲みましょう」
「ああ」
隣に並んで座る。肩が触れる距離。いつの間にか、それが二人の定位置になっていた。
カップを渡すと、リュシアンがスープを一口含み、ふっと息をつく。強張った肩の力が抜けて、穏やかな目をこちらに向ける。
——ああ、この顔だ。
初めてスープを出した夜にも、同じ顔をしていた。あのときは一瞬だけだった力の抜け方が、今はずっと続いている。
その目が、私を映したまま動かない。
スープを飲む手が止まっている。カップをことりとテーブルに置いて、リュシアンがこちらに向き直った。
——あれ、まだ残っているのに。
そう思った瞬間、顎に指がかかった。
驚いて見上げると、リュシアンの顔がすぐそこにあった。耳は赤いのに、瞳だけが真剣で——灰色の奥に、静かな熱が灯っている。
何か言おうとした。けれどその前に、唇に温かいものが触れた。
「……っ!」
柔らかくて、少しだけ震えていて、生姜とスープの香りがした。
ほんの数秒だったと思う。けれどその間、世界から音が消えた。鍋の音も、夜風も、自分の心臓の音さえも聞こえなくなって——ただ、彼の唇の温度だけが、はっきりと在った。
リュシアンが離れる。
至近距離で目が合った。彼の睫毛がかすかに震えている。
「……すまない。その」
さっきまで「愛している」と言い切った人間と同一人物とは思えないほど、しどろもどろだった。
「許可を取るべきだった……」
この人は、告白は堂々とできるのにキスの後は慌てるのか。順番が逆ではないだろうか。
頬が熱い。心臓がうるさい。でも——不思議と、嫌ではなかった。嫌どころか、唇にまだ残っている温度を、もう少し覚えていたいと思った。
「……だ、大丈夫です!」
声が上擦った。
「——だって私は、リュシアン様の妻ですから」
リュシアンが目を見開いた。
それから、耳まで真っ赤なまま——さっきよりもずっと不格好に、幸せそうに笑った。
深夜の厨房に、二人分の湯気が昇る。冷めかけたスープと、冷める気配のない頬の熱。
「……ごちそうさま」
リュシアンがカップの残りを飲み干して、静かに言った。
「おそまつさまでした」
からになったカップを並べて、私たちは顔を見合わせる。
政略結婚で嫁いできた先にあったのは、冷酷な公爵ではなくただの胃弱の夫で。
彼の凍えた胸を溶かしたのは、激情でも策略でもなく、生姜の香りと、ささやかな温もりの積み重ねだった。
明日の朝は、二人で同じ食卓を囲む。
ハンスの作る蕪のポタージュは、きっと上出来だ。あの人の料理に、私がほんの少しだけ口を出して、リュシアンがそれを食べて笑う。そういう朝が、明日から始まる。
きっとそれは、今日までの深夜のスープよりも、ずっと温かい。
——唇は、まだ少しだけ、生姜の味がした。
〈了〉




