~陽の巻~
火鳥が跨ったとたん、黒龍が棒立ちになった。
――危ない! 落ちる!
駆け寄ろうとしたが、貞じいに肩を掴まれた。
「危ないです! お下がり下さい」
――そんなこと言ったって――!
火鳥は、両手で黒龍のたてがみをにぎっている。
良かった、まだ落馬していないようだ。
棒立ちに会った黒龍の背から、何かが落ちた。
俺は火鳥が落馬したかと思い、心臓が凍りついたが、よく見ると落ちたのは鞍と鐙だった。
鞍には紐が付いていて、黒龍の体に、中途半端にぶら下がっている。
火鳥が片手で懐剣を抜いて、黒龍に絡みついている紐を切りおとした。
「……いい馬……」
笑みを含む声が聞こえた気がした。
そうだ、黒龍はいい馬だ。だけど、火鳥――。
突如として、黒龍が無茶苦茶に首を振って、庭中を凄い速さで駆け回り始めた。
「火鳥!」
俺は叫んだ。
「離れていてください!」
黒龍の背にぴたりと体をつけて、火鳥が叫んだ。
ダメだ。
今まで何人もの男が、黒龍に振り落とされて、大けがをしたり、死んだりしてる!
俺は火鳥を見た。不安になるほど小さくて華奢な体。
黒龍が首を振ったり不機嫌そうに跳ねまわるたびに、長い髪が、千々に乱れて宙を舞う。
俺は腰の太刀を抜いた。
黒龍は俺の一番いい馬だが、火鳥の命には代えられない。
――次に黒龍がこっちに来た時。黒龍の腹を割く。
俺は太刀を構えた。
「おやめください!」
貞秀が叫んだ。
「……黒龍が倒れたら、火鳥様が下敷きになります!
黒龍を斬ってはなりません!」
え? そうなのか……?
ええっ? ホントに……!?
――このまま振り落とされる方が危険なような気もするけど……。
俺は迷った。
「どいてください!」
火鳥が叫んだ。
黒龍がものすごい勢いでこちらへ向かってくる。
「和颯様!」
貞秀が俺の前に立ちふさがった。
俺の太刀が控えめに空を切る。
「はっッ!」
火鳥の掛け声とともに、黒龍が翔んだ。
黒龍の蹄が、俺の太刀の切っ先を飛び越して、走り抜けていく。
「どいてください!」
もう一度火鳥が叫んだ。
――今、黒龍が、火鳥の指示を聞いたような……。
黒龍は狂ったように飛び回り、庭を疾走し続ける。
火鳥の髪が舞い、黒龍のものか火鳥のものか分からない汗が散った。
それでも火鳥は落馬しなかった。
貞じいは俺の肩を掴んで、俺が前に出ないように押さえていた。
しばらくすると黒龍の走り方が変わってきた。狂気の走りではなく、何かを――火鳥の実力を――確かめるような走りだ。
やがて、黒龍が足を緩めた。降伏するようにブルブルという鳴き声を上げて尻尾を振った。
火鳥は、背筋を伸ばして馬具もついていない黒龍の背に跨っていた。
火鳥の髪は乱れていた。額には汗が浮かんでいる。それでも顎をつんとそらし、満足そうな勝者の笑みを浮かべていた。
俺の隣では貞秀が、茫然とした顔で佇んでいる。
火鳥は黒龍の背から俺を見下ろした。
「さすが、和颯様が毎日鍛え上げていらっしゃる馬です。
強くて、賢くて、誇り高い。
こんなにいい馬に乗ったのは、生まれて初めてです」
「まさか火鳥が黒龍を乗りこなすとは思わなかった」
俺は太刀を鞘にしまった。
火鳥は艶然と微笑んだ。
「馬に乗るのは好きだと、申し上げたはずです。
乗りこなせないような馬に、乗りたいなどとは申しません」
この世に、黒龍を乗りこなす女がいるとは思いもしなかった。――それも、馬具もつけずに。
――ああ、火鳥。
お前こそ。
強く、賢く、誇り高い。
――こんなにも夢中になったのは、俺は、生まれて初めてだ。




