火鳥
俺は先に一益を部屋に戻らせた。
「……では、わたくしも失礼いたします」
か細い声で呟いて、火鳥が立ち上がった。
「待て、火鳥」
火鳥は待たなかった。
俺は立ち上がって、火鳥の腕をつかんだ。
俺は火鳥の正面に回った。
火鳥は顔をそらした。
「――お前、一益をどう思っている?」
火鳥は俺と、目を合わせない。
「……とても、有能な方だと……」
火鳥は斜め前方の床に向かってつぶやいた。
そうだ。その通りだ。
「以前から、お前と一益は、馬が合うようだった」
「――ご不快だったのでしたら、お詫びいたします」
不快とかじゃない。嫉妬だ。悪いか。
「その一益が、改めて俺の部下になった」
「そうですね。おめでとうございます」
「――それなのに、どうして泣きそうなんだ?」
いいとか悪いとかは別として……。
俺の妻である火鳥とも、今まで以上に、距離が近くなるはずだろう?
「ちっとも泣きそうではありません」
「――もうちょっと、マシな嘘をつけ」
俺が顔を覗き込んだら、火鳥は顔の向きを変えて視線をずらした。
「――放してください」
「……放さない」
「……何故ですか?」
「放したら――お前は部屋に戻って、ひとりで泣くだろう?」
「……いけませんか?」
「ダメだ。ひとりで泣くな」
「わたくしの勝手です」
「俺の妻じゃないか! 俺を散々待たせた挙句、ひとりで泣くな――行くぞ!」
政じいが死ぬ前、ちょうど今の火鳥と同じような顔をしていた。
とても自害するようには見えなかったのに――その後、ひっそりと自害した。
俺は父を失った。政じいも失った。
今、このまま火鳥まで失ったら。
俺は――。
火鳥は怪訝な顔をした。初めて俺の顔を見る。
「――どこへです?」
俺は地団太を踏んだ。思わず叫ぶ。
「遠乗りだ! 約束しただろう!」
約束はしていない。正確には、俺が勝手に誘っただけだ。
でも、そんなの関係ない。俺は必死だった。
「男なら、約束を破るなと、教えられなかったのか!?」
「……わたくしは、男ではありませんが」
――そうだった!
「――とにかく! だ!
俺は待ちくたびれた」
毎朝毎朝、厩の前で。
時には1時間以上も。
「もう待つのはうんざりだ。行くぞ! 今すぐだ!」
「しかし……」
「なんだ!?」
馬に乗るのは好きだと言っていたじゃないか!
……やっぱり俺とは、行きたくないのか……!?
「この……服装で、遠乗りはちょっと……」
火鳥は着物の裾を見た。馬に乗るようにはデザインされていない。ぴらぴらだ。
確かに、それはちょっと、だ。
「袴が、どこかにあると思うのです。探してきますので――」
「300秒だ。それ以上は一秒たりとも待てない」
火鳥はいつも、捕まえたと思ったら、俺の腕をするりと抜け出す。
のんびり待っているうちにまた逃げ出されて、今度こそ俺の手の届かない遠くへ行ってしまったら――。
火鳥はむっとした顔をして、俺を睨んだ。
「無茶言わないでください」
「300秒で準備できたら、好きな馬に乗らせてやる」
あまり深く考えないで言った言葉。だが、はっと息を呑む音がして、火鳥の瞳が鋭い光を放った。
「――本当ですか?」
「もちろんだ。
男に二言はない」
――ああ。でも、黒龍はダメだ。
駿馬だが、気が荒い。今まで何人も踏み殺しているから――。
火鳥の瞳から溢れる光が、たちまち輝きを増す。なんて眩しいんだろう。
俺は火鳥の腕をつかんでいた手を放した。
「――では、カウントを」
「――いくぞ。
いち……に……」
俺は数を数え始めた。




