~陰の巻~
「天女の奥方様」そう言われて。元気いっぱいの笑顔でからかわれて。
ずっと昔からここにいたような錯覚におちいってしまう。
敵国なのに。
ここがまるで自分の故郷のような気がしてしまうのは何故だろう。
――私には、故郷なんてないのに。
「火鳥……」
話しかけられたので、笑顔のままで彼を見上げた。
「なんです?」
「……1つ、謝りたい。貞じいの事だ。
『薄汚いくのいち』などと言って悪かった」
たちまち現実に引き戻された。
「――いえ。良いのです」
――本当の事ですから。
「実をいうと、3年前、火鳥がここに嫁ぐ前、俺は本当に火鳥のことをくのいちだと思っていた」
――ええ。知っています。
「2度結婚し、2度ともすぐに夫を亡くしましたので」
――そしてその、どちらの死にも関与しております。
※※※※
一度目の結婚――萌の兄・頼純を殺すのは、それなりに苦労した。
だが、二度目は楽勝だった。
二度目の結婚相手は頼純と萌の叔父。
父と同じく槍の名手だった。
甥の仇を討つと豪語していた。
身の危険を感じた父が、自らの権力を駆使して、縁談をまとめあげ、火鳥を送り込んだ。
夫婦の関係はこれ以上ないほどに冷え切っていた。
二度目の夫は豪胆で勇敢だったが、繊細さは持ち合わせていなかった。
仇討の予定は筒抜けだったし、酒の管理も、厩の警備もスカスカだった。
父に仇討の予定日を知らせ、出陣前に飲む酒にはアサガオの種子の粉を混ぜた。馬の蹄の内側に、アザミの棘を浅く刺しておいた。
二度目の夫は、道三を打ち取ってくると鼻息荒く出発した。彼は出陣後に腹を下し、馬は少し走っただけで機嫌が悪くなった。道三は彼をあっさりと打ち取った。
※※※※
織口和颯は一点の曇りもない瞳で、火鳥の目を見つめた。
織口和颯のくちびるが、熱のこもった言葉を発する。
「でも、今はそれは間違いだったと断言できる」
――騙されていらっしゃいますよ?
「――火鳥が。
俺のもとに嫁いできてくれて本当に良かった」
――それも……勘違いです………。
織口和颯が尋ねた。
「――美濃は。どんなところだ?」
「大きな街道と。大きな山があります。
父の館は、稲葉山という山の中にあります。
とても深い山です。木の匂いが濃くて――」
火鳥は目を閉じた。
稲葉山は、天然の要害だ。
夏でも薄暗く、木々がうっそうと茂っている。
そこかしこに崖があり、罠が仕掛けられている。
正しい道を知らないと簡単にはたどり着けない。死に至ることもある。
館への道は険しく、冬には雪に閉ざされる。
「いつか。行ってみたいものだ」
いいえ。その機会はないでしょう。
美濃と尾張の同盟は、もうすぐ美濃が一方的に破ることになりますので。
「ここには深い山はないから」
――ええ。確かに。
初めて尾張に来た時には驚いた。
尾張には、本当に山がない。
どこまでもどこまでも広がる平地。それと、山という名がつく、いくつかの小さな丘。
遠く、遠く、遠く。
こんなに遠く、遥か彼方まで見渡せる場所があるなんて知らなかった。
太陽がいつも輝いていて。
だからあなたはいつも明るくて。
誰に対しても開放的で。
――こんなにも簡単に人を信じるのね。
私は誰も信じない。
稲葉山では、夏でもこんなに太陽が輝くことはなかったから。
それに。私は人を騙す生き方しか知らないから。
そして今の私は、光でいっぱいのこの土地に、戦を引き起こそうとしている。
――やっぱり私は『薄汚いくのいち』だ。
「盗賊団の皆さんは、強くなったのですか?」
――信勝様との戦になった暁には、どの程度、抵抗できそうですか?
「ああ。それはもう!」
彼は饒舌になる。
「毎日、訓練しているからな。
筋のいい奴が何人かいる。
それ以外のやつも――真面目に練習してる」
――なるほど。
「梁田は部下を育てるのがうまい。
特別に筋が良いやつに目立つ服装をさせて、周りのやつらを刺激するんだ。
それから、馬に乗れる奴を集めてチームを組んで――」
彼ははっとしたように口をつぐんだ。
「ああ。悪い。
女には興味のない話だったな」
「――いいえ。そんなことはありません」
火鳥は首を横に振った。
――興味津々です。
「それに――楽しそうに話す和颯様を見るのは、嫌いではありません。
生き生きとして――まるで、和颯様ご自身が太陽になったようです」
――えっ……?
何言ってるの。私。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
私はくのいち・火鳥。
あなたを騙して、騙して、騙して、騙して。
この土地を火の海にして飛び立つの。
彼が真剣なまなざしでこちらを見た。
「もしも、俺が太陽になれるなら――。
これからも。火鳥、お前を。照らしたい」
やだ。
泣かせないで。
私は甲賀の里と、稲葉山の影が産んだ、濁った闇に生きる女。
あなたの生み出す光の中では、生きていけないのです。
火鳥は目を伏せた。
彼は、黙った。
突然、明るい口調が降ってきた。
「なあ。明日。遠乗りに行かないか?」
――えっ!? 行きたい……。
思わず火鳥は彼を見上げる。
「馬に乗るのは、嫌いか?」
「いいえ。好きです」
食い気味に答えていた。
「好きです。――とても」
「明日の朝。屋敷の者が目を覚ます前の早朝。
――厩の前で、待つ」
背中から低く囁やかれた声は、その夜、穏やかな眠りに落ちる理由として充分だった。




