散歩
「火鳥……」
「なんですか?」
火鳥が笑ったままの顔で俺を見た。
「……1つ、謝りたい。貞じいの事だ。
『薄汚いくのいち』などと言って悪かった」
火鳥はたちまち目を逸らして顔を陰らせた。
「――いえ。良いのです」
そうだよな。
ここは、火鳥の実家・美濃よりも数段落ちる田舎の尾張地方。
尾張の、それも分家の家臣に『薄汚いくのいち』などと罵られて。
耐えがたい屈辱だったに違いない。
俺は白状することにした。
「実をいうと、3年前、火鳥がここに嫁ぐ前、俺は本当に火鳥のことをくのいちだと思っていた」
「2度結婚し、2度ともすぐに夫を亡くしましたので」
火鳥はしんみりと答えた。
――こんなにも時が経ってもまだ、萌の兄のことが忘れられないのだろうか。
「でも、今はそれは間違いだったと断言できる」
俺は心を込めて訴えた。
「――火鳥が。
俺のもとに嫁いできてくれて本当に良かった」
たとえその心が、一瞬たりとも俺に向いていなかったとしても。
火鳥が嫁いでから、もうすぐ3年になる。
無我夢中で走り抜けた3年間だった。
いろいろなことがあった。
盗賊とにらみ合った。
あまが池に潜った。
女装して踊った。
……3年、か……
結婚し、3年たっても子供が産まれなかったら。
妻の実家から、婚姻の解消の申し出があるのが普通だ。
火鳥は――もうすぐ美濃に帰る。
「――美濃は。どんなところだ?」
「大きな街道と。大きな山があります。
父の屋敷は、稲葉山という山の中にあります。
とても深い山です。木の匂いが濃くて――」
火鳥は目を閉じた。
生まれ育った稲葉山の風景を思い出しているのだろうか。
「いつか。行ってみたいものだ」
火鳥が美濃に帰っても。
尾張と美濃の同盟が続けば、いつか信勝の使者として訪れることができるかもしれない。
その時はまた、火鳥に会えるだろうか。
「ここには深い山はないから」
かわりに、海がある。
尾張の風はいつも、海の香りがする。
近くの山で、掛け声が聞こえる。
梁田の部下達が訓練に励んでいる。
今日は一緒に訓練できなかった。明日は俺も参加しよう。
「盗賊団の皆さんは、強くなったのですか?」
「ああ。それはもう!」
俺の舌が急に軽くなる。
「毎日、訓練しているからな。
筋のいい奴が何人かいる。
それ以外のやつも――真面目に練習してる」
俺の命よりも大切な仲間たちだ。
全部で700人。
全員の顔と名前はもちろん、性格や家族構成、趣味や好きな食べ物、嫌いなものまで全部把握している。
彼らのためなら、俺の持つ全てだって、いつでも手放せる。
「簗田は部下を育てるのがうまい。
特別に筋が良いやつに目立つ服装をさせて、周りのやつらを刺激するんだ」
俺は、どこまでも広がる空と大地を眺める。
俺は、ここが好きだ。
ずっと心のどこかで強くなりたいと思っていた。
だけど、こんなにも強さを渇望したのは初めてだ。
あらゆる外敵から、この土地と仲間たちを守りたい。
そのためには、俺が。
俺が、強く、ならねば。
「それから、馬に乗れる奴を集めてチームを組んで――」
俺ははっと気づく。
「ああ。悪い。
女には興味のない話だったな」
「――いいえ。そんなことはありません」
火鳥は首を横に振った。
「それに――楽しそうに話す和颯様を見るのは、嫌いではありません」
火鳥は眩しそうに俺を見て笑った。
「生き生きとして――まるで、和颯様ご自身が太陽になったようです」
火鳥の言葉に、俺の胸が高鳴り、背筋が伸び、体の芯がじんわりと熱くなる。
――今なら、何だってできる気がする。
俺は、太陽なんかじゃない。
だけど。もしそんな風になれるとしたら。
それは、火鳥が。
その折れそうに華奢な体で、精一杯生きるさまを近くで見て。
俺も。精一杯。全力で。生きて行こうと思ったから――。
「もしも、俺が太陽になれるなら――。
これからも。火鳥、お前を。照らしたい」
――だから。
これからもずっと、俺の傍にいてくれないか?
火鳥は目を伏せた。
ああ。
やっぱり……。
俺じゃ、だめ―――か……。
俺は空を見上げた。
精一杯の明るい声を出す。
「なあ。明日。遠乗りに行かないか?」
せめて最後に。
俺が生まれ育った、俺が愛するこの土地を、一緒に駆け抜けないか?
火鳥が、はっとした顔で俺を見た。
ああそういえば。
火鳥が嫁いできたばかりの時、萌と馬に乗る俺を、うらやましそうな目で見ていたことがあった。
あまが池の帰り道では『馬に揺られるのは嫌いではない』と言っていたしな。
共に過ごした短い日々が、次々と脳裏に浮かぶ。
「馬に乗るのは、嫌いか?」
「いいえ。好きです」
即答だった。
そうか。
知らなかった。
祝言の日の夜、俺は火鳥のことを何も知らないと思った。
結局俺は、3年経っても、ほとんど何も知ることができなかったんだ。
「好きです。――とても」
火鳥はゆっくりと、言い直した。
そうだったのか。
少なくとも1つ。
俺も知ることができたんだな。
俺たちはそれきり何も言わず、ただ、2人で歩いた。
那古野村の悪ガキたちは、二度と話しかけてこなかった。
俺は、火鳥の部屋の前まで、彼女の手をひいて行った。
俺は扉を開く。
火鳥が中に入った。
その背中に向かって、さっきからずっと練り上げていた、短い言葉を紡ぎ出す。
「明日の朝。屋敷の者が目を覚ます前の早朝。
――厩の前で、待つ」
火鳥が振り返る気配がした。
俺は、返事も聞かずに背を向けた。
返事はいらない。
たとえ火鳥が来なくても、きっと俺は待ち続けるだろう。
乱れた脈を激しく刻む心臓が、口から飛び出しそうなほどに暴れまわっていた。




