9、伊賀の熊蜂 ~陰の巻~
(密書)
父上
各務野が、死にました。
時間がありません。
最後の仕上げに入ります。
良い報告をお待ちくださいませ。
火鳥
※※※
「嫌よ。逝かないで」
火鳥は声を震わせた。
「お願い、置いていかないで」
部屋に置いた灯りは、とっくに油が切れて消えている。
「泣かないでください。火鳥様」
各務野が微笑んだ。
「人は順番に、旅立っていくものです」
火鳥はしゃくりあげた。
「ごめんなさい。わたしのせいで――伊賀に戻れなくて」
各務野は不思議そうな顔をした。
火鳥は言った。
「各務野は……伊賀で、死にたいと言っていたでしょう?」
「――ああ。そんな風に思ったこともありましたね。
気にする必要はありません。昔の話です」
「本当に……ごめんなさい」
「いいえ。良いのです。
人は、変わるものです。
想いも願いも変わります。
わたしの願いも変わりました」
火鳥の濡れた瞳が、各務野を見つめた。
「各務野の願いを聞かせてほしい。わたしが必ず叶えます」
震える手が、火鳥の頬に触れる。
「ほんとうに、かなえてくださいますか?」
火鳥は何度も頷いた。
各務野は微笑んだ。
「わたくしの願いは――火鳥様。
あなたに、幸せになってもらいたい」
各務野の手に、火鳥の手が重なった。
各務野の手は、かさかさだった。
乾いた手を、涙が濡らした。
「火鳥様。
熊蜂は――。あなたに出会えて、幸せでした。
私の持つ、技術と知識のすべてをあなたに伝えました。
あなたなら、どんなくのいちも到達しえなかった高みにまで登れると信じています。
だから、どうか。
私達くのいちが、決して手にすることのできなかった、幸せを、あな――」
火鳥の頬に添えられた手が、力を失った。
火鳥は、泣き崩れた。
どのくらい時間がたったのだろう。
火鳥は目を上げた。
扉の隙間が、わずかな明るさを含んでいる。
夜のとばりが、あがろうとしていた。
火鳥は袖口で、涙をぬぐった。
――悲しむ時間は、終わった。
全ての感情を、体の奥深く、黒い沼の中に沈める。
火鳥は静かに立ち上がった。
部屋の床板を外す。
地面と床下の間のわずかな隙間に、二本の脇差(太刀と懐剣の間の長さの刀)が並んでいた。
細く短い方の脇差には手を触れず、火鳥はやや大ぶりの使い込まれた脇差を手に取った。
夜明け前の屋敷は、静まり返っている。
火鳥は音を立てないよう注意しながら、床板をはめもどした。
火鳥は、手に持った脇差を、冷たくなった各務野の体の上に置いた。
廊下に続く扉を、わずかに開く。
部屋の中の音が、廊下に漏れ聞こえるほどに。
かといって、不自然に思われない程度に。
火鳥は細心の注意を払って、部屋の中を見回した。
完璧だ。問題ない。
「ごめんね、各務野」
死んだ師匠を使うのは気が引ける。
だが、各務野ならきっと、手段を選ぶなと言うだろう。
「これが済んだら、私もそっちへ行くわ」
各務野のいない世界で、自分が幸せになれるとは思えない。
「説教は、その時に聞く」
※※※※※※
先日、熱田で、本家の家臣達と直接話し、観察した。
信秀の死後、どちらにつくか。
少し前なら、誰もが迷わず信勝と答えただろう。
だが、カワセミ暗躍後の、今は違う。
長男の和颯か。次男の信勝か。
ほとんどの者が、立場を決めかねていた。
あと1年、地道に活動すれば、多くの家臣をこちら側に取り込めたはずだ。
だが信秀の死期は近い。
のんびりと時間をかけて懐柔している余裕はかった。
ならば。急がねば。
態度を決めかねる家臣を早急に翻意させる手っ取り早く確実な方法は、金品をばらまくことだ。
父からは援助を惜しまないとも言われている。
実際に金品をばらまくのは、政じいだ。
しかし、政じいは、火鳥を美濃のくのいちと察し、警戒している。
カワセミ経由で手渡しても良いのだが、金の出所が不自然だと怪しまれる。最悪、カワセミが信用を失う。
余裕がない今、それは最も避けなければならない。
※※※※※※
そろそろ、織口和颯が起き出す頃合いだ。
火鳥は、耳をすませた。




