床入り
湯殿から出て、自分の部屋へ行く。新しい白い着物を着せられる。
俺も14才のオトコノコだ。ドキドキそわそわしながら、髪を結いなおして貰っていると、廊下からドスドスと荒々しい足音が聞こえてきた。
「和颯様、入ってもよろしいでしょうかっ!?」
峯の声だ。
「入れ」
スパーン! と音を立てて、扉が開いた。
おお……。
ずいぶんと、勢いが良いな。
「わたくしっ!
和颯様のお母上のお輿入れの際も、信秀様がご側室をお迎えになる際も、お体を清めるお手伝いをさせていただきましたっ!」
「……お、おう。……ありがとう……」
えっと。
ここは、ありがとう、でいいのかな?
今、父上の側室の話とか、どうでもよくない?
俺、初めての床入りを前に、心ここにあらずって感じなんだけど。
「そのわたくしの、何が不満なのでしょうかっ!?」
「――何があった?」
とりあえず聞いてみる。
聞かないと、帰らなそうだし。
「火鳥姫の湯あみの間、一度たりとも湯殿に入れていただけなかったのでございますっ!
――このような屈辱は、初めてでございますっ!」
なぬっ!
俺と政じいは、ぎょっとして目を見合わせた。
「峯、詳しく申せ」政じいが言った。
「わたくし達は、湯殿に参りました。
火鳥姫は、草履を脱いで、中に入られました。
わたくしが続いて入ろうと致しますと――あの各務野とかいう、侍女が入り口をふさいだのでございます」
政じいの眉がピクリと動いた。
「わたくしが入れてくださいと申し上げましても、各務野は首を横に振るばかり。
ならば力づくで入ろうと、各務野の体を力いっぱい押したり引いたりしたのですが、ぴくりとも動かなかったのでございます。
そうこうしているうちに、火鳥姫はご自分で湯あみなさり、身支度を整えられて、湯殿から出ていらっしゃいました」
俺は政じいと目を見合わせた。
「で、火鳥姫は今どこに?」
「寝室で、和颯様をお待ちでございます」
峯は、火鳥姫が三度目の結婚であることも、前の夫が次々と死んでいることも知らされていない。だから、とりあえず寝室へ案内したということなのだろうが――。
「あの各務野という侍女が曲者でございます。
とにかく、和颯様が寝室にお入りになる前にお伝えせねばと思い、こうして参りました」
「お……おぅ。ありがとう」
とっても大切な情報でした。
――俺の命に関わるかもしれないくらいに。
「そうだ、峯、教えてくれ」
「何なりと」
「寝室には、庭に面した扉があったはずだ。その扉は、開いているか?」
「はい、開いております。火鳥姫が、庭を見たいので開けてほしいとおっしゃいました」
「そうか。ありがとう――もう下がっていい」
俺は立ち上がった。
念の為、太刀を手に取った。
「――行ってくる」
政じいが心配そうな目で言った。
「お供いたしましょうか……?」
俺、今夜、殺されちゃうのかなぁ。
お供してもらおうか……。
――いや、やっぱり、二人きりにさせてくれる?
部屋を出た俺は、屋敷の反対側の廊下へ向かった。
寝室の扉が開いていれば、この廊下の壁にある隙間から、寝室の様子を見ることができる。
足音を忍ばせ、廊下へ行く。
いや、俺の家なんだから、コソコソする必要はないんだけど。なんとなく。
そっと壁の隙間に目を当てると――
見えた。
火鳥姫だ。
他には誰もいない。
白い着物を着て座っている。
彼女は誰かに見られているなどとは、夢にも思っていないに違いない。
両手で自分の体を抱きかかえるようにして――小さく震えている。
耐え難いほどの不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、あの小さな細い体から、ありったけの勇気と知恵をかき集め、己の全てを賭けて立ち向かおうとしている。
そんなふうに見えた。
身を焦がすような恋が近づいてくる足音が聞こえた気がした。
ぞわぞわするような感覚が、全身を駆け巡った。今すぐ彼女を抱きしめたい。
しかも彼女は既に、俺の妻だ。
今にも爆発しそうな感情を押さえつけ、俺は寝室へと向かった。
「入るぞ」
声をかけると、やっと聞き取れるほどの小さな声が答えた。
「――はい」
ぞくぞくする。
俺は扉を開け、寝室に入った。
火鳥姫は、先ほど同様、部屋の下座に座っていた。
真新しい白い夜着も、風が吹けば折れそうな体つきも変わっていない。
だが、先ほどとは雰囲気が一変していた。
火鳥姫が身にまとっているのは、凪いだ夜の海の気配。
闇を溶かしたような瞳からは、何の感情も読み取れなかった。
数秒前の彼女と、同じ女だとは思えない。
――どっちが、本物だ?
先ほどまでの高揚していた気持ちが、さあっと鎮まっていく。
俺は多分、この女のことを、全く分かっていない。
見るたびに、違う。
近いのに掴めない。
まるで、陽炎。
――気をつけろ!
俺の全身が、警告を発している。
俺は、警戒しながら上座に座った。
火鳥姫が美しい所作で床に手をつき、頭を下げた。
「斎藤道三の娘、火鳥でございます……」
声が、わずかに震えている。床についた指先も。
――騙されるな!
俺はいつでも抜刀できるよう、太刀の柄をぐっと握りしめた。
頭を下げたままの、火鳥姫の纏う雰囲気が、わずかに変化した気がした。
呼吸二回分の間があった。
まるで安心した人が、ほうっ、と息を吐く時のように、火鳥姫の肩が下がった。
火鳥姫が、勝ち誇ったように頭をあげた。
顔には、妖艶な笑みを浮かべていた。
「和颯様……」
さわさわと撫であげるような声で俺の名を呼ぶ。
な……何が起こった?
火鳥姫は、混乱して硬直する俺の前ににじり寄った。
「このような――」
柳のように細い手が、俺の太刀をねっとりと撫で、持ち上げた。俺の両手は、華奢な左手がわずかに触れると、たちまち力を失った。
火鳥姫が俺の耳元に口を寄せ、艶めかしい声で囁く。
「無粋なものを――。
和颯様とわたくしの寝室へ、お持ち込みにならないでくださいませ……」
火鳥姫は持ちあげた太刀を、自分の体の反対側へ――俺の手の届かない場所へ――置いた。
黒い瞳が、小さな炎を宿して俺を見上げる。
火鳥姫の左手が、夜着の上から俺の足首にそっと触れた。全身の毛が逆立つような感覚。
猛毒を持つ小さな黒蛇が這い上がるように、細い指が、俺の夜着の上を這いあがってくる。
脳みそが痺れて。思考がまとまらない――。
「火鳥は――殿方を知りません。
どうぞ、和颯様が、火鳥の手を取り足を取り、教えてくださいませ――」
紅に彩られた唇が、今にも俺の首元に触れそうだ。
俺は、硬直したまま動けない。
火鳥姫は、怪しげな笑みを浮かべている。しなやかな左手が、俺の右手を掬いあげた。俺を絡め取るような視線で見上げながら、その手を、自分の胸元へと誘い――。
このままじゃ、殺される!!
俺は、絡みつく糸を引きちぎるようにして立ち上がった。
大股で火鳥姫の脇を通り過ぎ、床に転がっていた太刀を拾い上げる。
「今夜は、自分の部屋で眠る!!」
大声で宣言した。
火鳥姫は顔を伏せていた。
華奢な体から発せられていた妖気が、ゆっくりと霧散していく。
俺は転がり出るように、寝室から逃げ出した。
まだ心臓がバクバクしている。
あ……
あれが………媚薬か……!
あぶ……あぶ……危ないところだった!!




