~陰の巻~
顔にかかる髪を、そっと払う、男の手。
気が遠くなるほど剣を握り続けた結果、数え切れないほどの豆が潰れ、すっかり固くなった手のひら。
えっと……。
――この手は……。
知っているはずなんだけど……
――ああ。思い出した。
ずっと昔だ。
豆だらけの男の手が、顔にかかる髪をそっと払った。
こうも言った。
「……お前には、借りがある……」
――そう、あれは確か……
※※※※※
「さあ、行こうか」
斎藤道三が、馬に跨った。
こちらに向かって、手を伸ばす。
その手を取ろうと――。
「カゲロウ! 待て!」
カワセミが、駆け寄ってきた。乱暴に肩を掴む。
「本当に、行くつもりか!?」
カゲロウは頷いた。
「危険な任務だと聞いている。死ぬかも――しれないんだぞ?」
カゲロウは俯いた。
「――それでも、いい」
ここにいるよりは、いい。
「ここにはもう、戻らない」
カゲロウ、という名前は嫌いだ。
カゲロウという虫には、口がないという。
口がないということは、食べられないということだ。
だから、カゲロウの寿命は、とても短い。
「喰うな。早く死ね」
名前を呼ばれるたびに、そう言われている気がした。
カワセミの手が、彼女の顔にかかる髪をそっと払った。
彼の手は、指先まで固い。
「俺――お前には、借りがあるって言ったよな」
「……だから……。おぼえてないし……」
もう、忘れて。
カゲロウは、斎藤道三に向かって手を伸ばした。
大きく固い手のひらが、幼い彼女の手をしっかりと掴み、力強く馬上に引き上げた。
小さなカゲロウの体は、斎藤道三の腕の中にすっぽりと収まった。
「別れは済んだか?」
「はい」
カゲロウは頷いた。
「おい、もう少し待っ――」
カワセミの声は無視された。
「では、行こうか――『我が娘』よ」
先ほど父となった男が、馬の腹を軽く蹴った。
馬がゆっくりと歩き出す。
力強い腕の中で、馬に揺られる。
この腕は。強くたくましく、信頼できる。
ここが自分の帰る場所。死ぬまで。ずっと。
「うわっ、待て。待てって言っているだろう!」
カワセミが慌てた様子で駆け寄ってくる。
「待ってくれ! カゲロウ!」
道三は、彼を無視して話し続ける。
「新しい門出には新しい名前が必要だ。
愛すべき『我が娘』にふさわしい名前を与えなければ――」
カワセミは、少しづつ歩調を早める馬に並走する。最後は全力で走りながら。
カワセミが叫んだ。
「お前が憶えてなくても、俺は憶えてる。
この先も。ずっとだ。
だから――いつか困ったときは、
俺を頼れ――!」
父の力強い腕の中で、馬に揺られる。
この腕は。強くたくましく、信頼できる。
ここが自分の帰る場所。死ぬまで。ずっと。
※※※※※
目を閉じたまま、火鳥はゆっくりと現実へ浮かび上がる。
(――カワセミ……)
そうだ。カワセミ。
――今、どこにいるのだろう。
彼がまだ生きていれば――。25歳くらいか。きっと今頃は、優秀な忍になっているに違いない。
頼めば――力になってくれるだろうか。
火鳥の体の半分は、まだ夢の中にいる。
力強い腕に抱かれ、馬に揺られる感覚。
暖かく。ゆらゆらと。
心地よい感覚に火鳥は、しばらくその身を預ける。
これは懐かしい思い出。
しばらくしたら、目が覚める。
――もう少しで、目が覚めるはず。
……そろそろ、目覚めるはず。
…。
……。
――ん?
揺れが収まらない。
……なぜ?
火鳥は目を開けた。
目の前にあったのは、男の胸板。
ぎょっとしてその上を見る。
胸板の上で、馬の進行方向を見ているのは、織口和颯の顔だった。
火鳥は織口和颯の腕に抱かれ、馬に揺られていた。
「!!!!?」
驚愕のあまり、馬から落っこちそうになった火鳥を、織口和颯が、さっと両手で抱きとめた。
「か、和颯様?」
顔から一気に火が出る。
織口和颯の、限りない優しさに溢れた視線が、火鳥を捉えた。
「火鳥。どうやら俺は。お前を。誤解していたようだ」
え? え? え?
何が起こった!?
意識を飛ばしている場合じゃなかった!!
火鳥は動揺を悟られないようにしつつ、状況把握に努める。
すぐ近くを、各務野が歩いている。
(かっ、……各務野っ……!)
火鳥は目線で、各務野に助けを求めた。
各務野は、すぐに火鳥の救援要請に気付いたようだ。
だが
各務野は火鳥を見て、にやぁっ、と笑うと、つい、と目線を外した。
自分で何とかしろ、という事らしい。
(ええ~~っ!?)
まずいまずいまずいまずい。
どうすんのこれ。




