〜陽の巻〜
――俺は。やりきった!――
自然と笑みが浮かぶ。
ちらりと岸辺を見ると、何やら騒いでいる集団がいる。
十人以上はいるだろうか。
毒蛇でも出たのかもしれない。
まあ、彼らでなんとかするだろう。
それより、大蛇だ!
俺は岸に上がった。
わっ、と皆が駆け寄ってきた。
差し出された手拭いで、体を拭く。
顔を拭いたら、少し血が付いた。脇差を咥えて泳いでいたので、口角を少し切ったらしい。
「隅から隅まで探したが、もう、大蛇はいなかった。
――誰か、確認してきてくれ」
歓声が上がる。
「鵜太郎、行けっ!」
「よしきた!」
そんなやり取りが聞こえ、男が一人、池に飛び込んだ。
男は何度も水に潜って確認している。やはり大蛇はいないようだった。
――良かった!――
みんな、喜んでいる。
俺は! 満足だ!
地面に置いておいた着物を身につける。
那古野村の村長が、着付けを手伝ってくれた。
「良かったな!」
俺はテンション高めだ。
「はい」
那古野村の村長が言った。
おい、テンション低いな!
「これで皆、安心してあまが池に行けるな!」
「はい。それはもう――和颯様のおかげでございます。
ありがとうございます……」
ええー。
なんで、一緒に喜んでくれないの?
「うんうん、良かった! 俺はもう帰るから、俺の馬を曳いてきてくれ」
「――えっと……。……承知しました」
村長は少し困ったように言う。
ん?
なんか、様子がおかしくないか?
村長は、池の近くにいる集団をちらちらと盗み見ながら、俺の顔色を窺っている。
「――なにか、あったのか?」
「それが……」
俺が聞くと、村長はほっとした表情を浮かべた。
「先ほど、奥方様が、池のほとりで倒れてしまわれて」
「は?」
「えっと――」
奥方様って? 誰の?
いや。
俺しかいないよな。
俺の奥方様って? 火鳥?
――他には……いない。よ、な?
嘘だろ。
声が震えた。
「火鳥が、来ているのか?」
俺が近づくと、人垣が割れた。
人垣の向こうに、各務野に肩を抱かれ、死んだように地面に横たわる火鳥が見えた。
俺は、その場に立ちすくんだ。
足に根が生えたように動けなかった。
村長が遠慮がちに声を上げた。
「和颯様が水に入られた直後です。
奥方様がいらっしゃり、あまが池の縁に立たれました。
『あまり近づきすぎると池に落ちますよ』と申し上げても、聞こえいていないご様子でした」
「どうして……」
「奥方様は、懐剣を握りしめて、ずっと水面を見つめていらっしゃいました」
「――何しに、来たんだ……」
「あの……。
私が思いますに……。
万が一、和颯様が大蛇に襲われたら、奥方様も水に飛び込んで、命がけで助けに行かれるおつもりだったのではないでしょうか」
「いや。
火鳥は、命がけで俺を助けたりはしない」
火鳥が命がけで誰かを助けるとしたら、相手は俺じゃない。
火鳥が愛しているのは、萌の兄なんだ。
許せないことにそいつは、火鳥を残してとっくの昔に死んでいる。
鋭い爪で胸の表面を引っかかれる感覚。
久しぶりだ。でももう、この感覚にも慣れてしまった。
あ。むしろ。
火鳥はやっぱり斎藤道三の放った暗殺者で、俺が大蛇に襲われたら、そのどさくさに紛れて、俺に致命傷を与えるつもりだったとか?
――そっちの方が、しっくりくる。
「おそれながら……和颯様は、奥方様を誤解なさっているのでは?」
村長が遠慮がちに言った。
「盗賊が来た夜のことを、憶えておいでですか?」
「もちろんだ」
「あの夜、我々は村の男全員総出で、和颯様のもとへ駆けつけました。――その理由を、ご存じですか?」
「麦を守るためだろう?」
「もちろんその通りです。ですが、あの夜我々は誰一人、盗賊の存在に気付きませんでした。
奥方様が、夜中に我々を起こしに来るまでは」
村長の声に励まされるように、集まってきた那古野村の皆が次々と口を開いた。
「火鳥様は、必死だったがや」
「村中の家の戸を一軒残らず叩いて、全員叩き起こして回ったが」
「きっと、急いで飛び出してきたんだなぁ。草履も履いていなかったもの」
「あの時は、和颯様も裸足だったなぁ」
「そうそう。和颯様は、着物もはだけて」
「残念ながら、火鳥様の着物ははだけていなかったけれども――」
残念そうに言う男を、軽く睨みつけて黙らせる。
「じゃあ、あの時は。火鳥が皆を起こしたから、加勢に来てくれたのか?」
「そうだぁ。だってあの夜は皆、ぐっすり眠っていたもの」
――そう。だったのか……
――知らなかった……。
火鳥は、そんなこと、俺に、一言も、言わなかったから。
俺の足から生えていた根が、溶けるように消えた。
俺は人垣の間を通り、火鳥の傍まで歩いていった。
集まった皆が黙って俺を見ていた。
各務野が、地面に座り込み、横たわる火鳥の肩を抱いている。
火鳥は、右手に懐剣を握りしめたまま、ぐったりとまぶたを閉じていた。
各務野が配慮したのだろう。懐剣には、既に鞘がはめられていた。
俺は、火鳥の傍に膝をついた。
俺が火鳥の右手から懐剣を取り上げようとするのを、各務野が静かに制した。
「強く握りしめておいでです。今は、このままにしてくださいませ」
俺は各務野に従った。
「火鳥……」
俺は、火鳥が握りしめている懐剣を見た。
柄と鞘は白木でできている。
大きさも、火鳥が使うにはやや大きすぎるように感じた。
おそらく、男物。
萌の兄の、形見……なの…か?
それでも俺は。
「和颯様、馬を曳いてまいりました。後のことはお任せください」
馬の足音がして、俺のすぐ近くで止まった。
「和颯様は奥さまと、お屋敷へお戻りくださいませ」
「ありがとう――そうさせてもらう」
俺は、火鳥の顔にかかる長い髪をそっと払った。
お前に……借りができたな。
俺は火鳥を抱き上げ、立ち上がった。




