前日
ここから少し離れた場所に「あまが池」という池がある。
昔から『大蛇がいる』との言い伝えがある。
太陽は、頂上を過ぎた。
火鳥は、各務野と隣村のあぜ道を歩いていた。
麦の収穫を終えた畑。村の男女が、小声で言葉を交わしながら、草を焼いた灰や、動物や人の糞を土の中に漉き込んでいる。
麦の収穫は上々だったはずなのに、皆の顔色は悪い。どんよりとした空気が、村全体を覆っているようだ。
「……各務野は、先に帰っていて頂戴」
各務野は、ちらりと火鳥を見た。
「――承知いたしました」
軽く一礼をしてそのまま屋敷へと歩いて行く。
火鳥は、一人で、木陰に腰を下ろした。
傍目には、歩き疲れて休んでいるようにしか見えないはずだ。
火鳥は耳をすませた。
ねえ、聞いた? 安食村の人の話。
聞いた。雨の日、あまが池で大蛇を見たって。
やだ、なにそれ。聞いてない。
堤防の上までよじ登って来て、こっちを見たんだって!
やだあああぁぁぁ! こわいぃぃぃ!
胴の太さは1メートルもあったって聞いたぜ。
うそっ……。
しっぽの先は見えなかったらしい。
それでも10メートル以上はあったらしいぜ。
ええっ! 本当に!?
それより、大野木村の話は聞いたか?
知ってる。大蛇に喰われた人がいるって。
ただの噂でしょ?
いや。そうでもないらしいぞ。
あまが池に行ったっきり、帰ってこないって。
嘘でしょ! 私もうあまが池には行かないことにするっ!
火鳥は足元を見つめた。
――ただの噂だと思って、あまり気にしていなかったけれど。
どうやら本当に大蛇が出るようだ。
しかも、人を取って食べるなんて。
なんて恐ろしい。
今後、あまが池には絶対に近づかないようにしよう。
帰ったら各務野にも教えてあげないと。
馬の足音が近づいてくる。
火鳥は顔をあげた。
織口和颯だ。
険しい顔をして、馬に乗っている。
前を向いているが、何も見ていない。
何か、考え事をしているようだ。
まだ、火鳥には気づいていない。
――織口和颯については、もう少し深く知る必要がある。
火鳥は織口和颯の目線がこちら側へ来る瞬間を見計らい、ふわりと立ち上がった。
織口和颯の視点が定まり、こちらを見た。
織口和颯の口の形が「かちょう……」と言う形に動く。
火鳥は遠慮がちに微笑み、小さく手を振った。
「和颯様……」
織口和颯は戸惑ったような表情を浮かべた。
迷っている。
火鳥は表情を「すべてを受け入れる笑顔」に切り替えた。
織口和颯は、馬の鼻先を火鳥のほうへ向けた。こちらへ近づいてくる。
――よし、成功!
馬の腹が火鳥の真横に来る前に、火鳥は半歩、馬の側へ近づいた。
美しい毛並み。
火鳥は馬の首を撫でた。自然と穏やかな表情になる。
「こんなところで和颯様にお会いすることができ、火鳥はとても嬉しいです」
馬の首に目線を落としたまま言う。
「……そう、か」
織口和颯は、馬から降りた。
火鳥はちらりと目をあげた。
織口和颯は、火鳥のすぐそばに立って、何かを言いたそうにしている。
織口和颯の情報は欲しいが、この男のペースに巻き込まれると、ろくなことがない。
会話の主導権は握っておきたかった。
火鳥は先に話しかけようと、口を開いた。
だが、声を発したのは、織口和颯が先だった。
「火鳥には、わざわざ美濃から嫁いできてもらったのに、
今まで何もしてやれず申し訳なかったと思っている」
「いえ。そんな事は……」
これからたっぷり、美濃のために働いて頂く所存です。
お気になさらず。
「もし……もしもだが。
俺が明日、死ぬとしたら。
何か、欲しいものはあるか?」
「えっ……?」
想定外の質問だった。
火鳥は、聞き間違えたかと思った。
この男は、そういうことは言わないタイプだと思っていた。
どうやら、火鳥の見込み違いだったらしい。
まあ……別にいいけど。
「明日死ぬとしたら」なんていう男は、本当に明日死んだりはしない。
明日も明後日も、もりもりご飯を食べて、ゆっくり寝て、好き勝手なことをして暮らす気満々だ。
ただほんのちょっと、嫌なことがあったり、センチメンタルな気分になったりして、自分の自尊心を守りたいだけ。身近な誰かに、親切な言葉をかけてもらいたいだけだ。
要は、大した努力もしないくせに、甘えたいだけ。
――めんどくさっ……。
だが、この質問に対する答えは決まっている。
――いいわよ。『定石通り』に答えてあげる。
火鳥は「切なげな顔」を作った。
目を伏せ、吐息多めで恥じらいながら答える。
「では……和颯様が今、髪を結うのに使っていらっしゃる、その紐を……」
こう言えば相手は必ず相好を崩して、「そうか、そうか~」とか言って満足する。もともと明日死ぬ気などないのだから、それっきり、紐のことなんて、すっかり忘れてしまう。
――これで、ご満足ですか?
火鳥はちらりと目をあげ、織口和颯の顔を見た。
ん?
思っていた表情と違う……!?
なんだか思いつめたような……?
織口和颯は絞り出すように「そうか」とだけ言った。
顔を背けるようにして馬に乗り、自分だけ先に行ってしまった。
――…………あれ……?




