~陰の巻・回想~ 美しい月の夜 土岐頼純の屋敷 火鳥・12才
「火鳥でございます」
美しい絵の描かれた襖の前で膝をつき、声をかける。
傍らには、美酒。父に頼み、特別に取り寄せてもらった。
酒を入れる徳利も、今夜のために特別にあつらえてもらった物だ。
「火鳥姉さま?」萌の声がした。少し眠たそうだ。
「来てくれて嬉しいよ。入っておいで」
夫・頼純が答える。
「失礼いたします」
既に体に染みこんだ所作。火鳥は襖を開け、両手を床について頭を下げた。
手に持っていた本を置く音。足音が近づいてくる。
火鳥が立ち上がろうとするのを、肘に手を添えて助けられた。ふわりと体が軽くなる。
そのまま抱きしめられた。
「ああ、火鳥。今夜は特に奇麗だ」
上品な香の薫りが火鳥を包む。その中にわずかに混じる、頼純自身の発する香りが感じられた。
「――月から舞いおりた天女のようだ」
考えて発したのではなく、思わず口から零れ出てしまったような言葉。
火鳥は、いかにもためらいがちに、という風に、頼純の着物の胸元を小さく握った。
大きな両手が、火鳥の頬と顎に添えられ、優しく上を向かされた。
柔らかな頼純のくちびるが、火鳥の額にそっと落とされる。
頼純の指が、火鳥の唇にあたたかく触れた。
頼純は決して、火鳥の唇に自分の唇を重ねない。
『それは、火鳥が裳着(成人の議)を済ませてからだ』と公言してやまない。
頼純が、心の底から火鳥を大切に想っている証だ、と屋敷の皆が言う。
――当然だ。
『土岐頼純に嫁ぎ、身も心も火鳥に捧げてもいいと思えるほどに溺愛させる』
これが父から告げられた、火鳥の任務だったのだから。
任務は成功した。
火鳥が頼純に乞うがままに父は出世し、頼純に次ぐ地位にまで昇り詰めた。
だから、新しい指令が届いた。
今では火鳥を溺愛している頼純だが、最初からうまくいったわけではなかった。
頼純は気難しいだけでなく、斎藤道三の娘を嫌悪していた。
火鳥は頼純に気に入られるべく、手探りで漢文を読み、興味のありそうな話題を探り、好まれる仕草を研究した。
傍らにはいつも、各務野がいた。各務野がいたからこそ、ここまで来られた。
頼純は変わった。
古くから頼純に仕える家臣たちも驚くほどの変貌ぶり。
もう一度、抱きしめられる。
香の薫りと、頼純自身の香りが、やさしく、あたたかく、やわらかく、火鳥を包む。
「今夜は月も綺麗だ。一緒に空を眺めようか」
火鳥の耳に触れそうなほどに近づいた、頼純のくちびるが、しっとりとささやく。
徹夜で読んだ漢文の知識。必死で探した、頼純の興味をひく話題。試行錯誤しながら、何千回も練習した仕草と表情。
はじめは苦労して身に着けた。だが、それらは既に消化され、今では火鳥の一部となっている。
頼純は、どこまでも優しい。
今夜は、月が、美しい。
このまま酒を飲まずに部屋へ戻ったら、明日もまた、この柔らかな嘘にまみれた、穏やかな日常が続くのだろうか。
頼純が火鳥を愛おしそうに見つめた。彼の左手が、火鳥の右手を掬いあげようとした。
火鳥の心臓がバクリと音を立てる。
火鳥は右手を、自分の胸元へ寄せた。頼純の左手には、自分の左手を重ねる。熱く大きな頼純の手が、折れそうに華奢な火鳥の左手をそっと包みこんだ。
火鳥の耳が失っていた集中力を取り戻し、天井裏に息づく、かすかな音をとらえた。
――天井裏に、誰か、いる。
こんな場所にいるのは、忍。それ以外、考えられない。
――父だ。
父の放った忍だ。
任務に失敗した忍は『消される』と聞いたことがある。
――そうか。私が暗殺に失敗したら……私を『消す』つもりで……。
火鳥は右手を、自分の胸元へ当てた。
決して人前ではだけぬよう、常に気を配っている襟元。
この下には、おぞましい蛇がのたうち回ったような、醜い傷がある。
揺らぎかけた気持ちがすうっと凪いでいく。
しっかりしろ。
――心を、奪われるな。
頼純が愛しているのは、穢れを知らぬ、深窓の姫君だ。
いつどこで生まれたのかすら不明の、素性の知れない娘でもなければ、誰にどうやってつけられたのかも分からない、醜い傷を持つ女でもない。
幼い頃から、諜報と暗殺の技術を叩き込まれた、斎藤道三のくのいちなど――。
はなから愛されるはずもなかった。
頼純が溺愛しているのは、火鳥ではない。
――彼が愛したのは、ただの幻――
だから、火鳥が帰るべき場所は、頼純の腕の中ではない。
火鳥は瞳を閉じた。
表に現れる仕草と顔の表情はそのままに、自分の心を、深く暗く遠い場所へと沈めていく。
体温が、すうっと下がるような錯覚。感覚が冴え渡る。
耳が、かすかな音をとらえる。世界の解像度が上がる。
天井裏に、一人。
床下にも、一人。
庭には……二人……。
――そう。上等。
四人とも、そこで見ているがいいわ。
私は『熊蜂』の弟子。
今ここで、任務を完遂する。
各務野と共に、父のもとへ帰る。
なぜならそこが――私に許された、唯一の居場所なのだから。
火鳥はゆっくりと目を開いた。
完璧に作り上げた表情で頼純を見上げる。
頼純がはっと息をのむ。
火鳥は唄うようにささやいた。
「父が。美酒を送ってくれました。
頼純様と二人で飲むように、と――」




