陽の巻
「分かった」
俺はほっとする。
安心して脱力してしまいそうだ。
良かった!!
――頑張ったぞ! 俺っ!!!
だが、すぐに気づく。
「――実は……俺は……――。
名前を付けるのは、苦手で――」
静かな声が淡々と告げる。
「結構です。
和颯様がつけてくださった名でしたら、どんな名でも頂戴いたします」
そうは言っても……。
本当に名前をつけるのは苦手なんだ。
しかも、新しい門出を飾る名だ。
何か、彼女にぴったりの、美しい、特別な、名を――。
「そうだな――……」
――どどどど、どうしよう!
あまり時間をかけすぎたり、どうしようもなくセンスのない名前だったりしたら、いろいろとぶち壊しだ。最悪、火鳥の気が変わってしまうかもしれない。
あああああ~~~!!
この場で、急いで、いい名前を、ひねり出さないと!!
焦ったらだめだ! だけど、のんびりもできないっ!!
――どうする!? 俺っ!!?
その時、ふっと俺の脳裏に、いつか見た光景が浮かび上がった。
誰もが寝静まった夜中。
一人、庭に出て、星空の下で唄う、火鳥。
済んだ唄声は、俺が今まで聞いたどんな音楽より美しくて。
風に吹かれてふわりとうかんだ彼女の打掛は、鳥の羽みたいだった。
まるで、極楽に住むという迦陵頻伽が歌っているような――。
――あっ! 迦陵頻伽!!
迦陵頻伽。
極楽に住む、半人半鳥の天女。
これなら、火鳥にぴったりだ。
「じゃあ、迦――」
迦陵頻伽、と言いかけて、俺はあわてて口をつぐむ。
いやいやいやいや。
さすがに『迦陵頻伽』は、ちょっとやりすぎだ。
これから火鳥が名乗るたびに、皆が名前の由来を聞くだろう。
その時に、俺が『迦陵頻伽』と名付けたと知られたら――。
いくらなんでも、こっ恥ずかしすぎる!!!
一益が俺に向ける、ニヤニヤとした笑い顔が目に浮かんだ。
ちょっと待った!
『迦陵頻伽』は、撤回だ!!
だが、火鳥はかすかに口元を緩めてこちらを見つめ、俺が新しい名前を告げるのを待っている――。
時間はないぞ!
急げ! 急げ!
急ぐんだ、俺!!
ぎゃ〜〜〜! どうしたらいいんだっ!?
――あっ……!
昔、熱田で。火鳥と舞を見たことがあった。
題名は確か――『迦陵頻』……だったか……?
あの舞では『迦陵頻伽』と『胡蝶』が番で――。
胡蝶と迦陵頻伽が同等だ、という話をしたんだった。
そうだ。
『胡蝶』がいい。
胡蝶なら、文句なしに美しい。
しかも、迦陵頻伽と同等だ。
火鳥にぴったりの名だし、名前の由来を聞かれても適当にごまかせる!
もう、これしかない!
よしっ! 賢いぞ! 俺!!
俺は、火鳥を見て、静かに告げる。
「『胡蝶』だ」
『胡蝶』とは。
我ながら、よくひねり出したものだ。
うんうん、頑張ったぞ、俺。
――どうだ? いい名前だろう?
ところが俺の予想に反し、火鳥は困惑した顔をしていた。
――ええっ!?
ダメ………だった…かな……?
俺は途端に不安な気持ちになる。
「――この名前では……気に入らないか?」
「いえ。そういうわけではありません。
ですが。『コ蝶』の『コ』は、どのような字を書くのでしょうか?」
――ああ、そんなことか。
火鳥は女だが、漢字にも造詣が深いからな。
確かに、『胡』なんて、あまり使わない字だし。
火鳥はもう、抵抗しなくなっていた。
俺は火鳥の上から退いた。
静かに、彼女の華奢な体を助け起こす。
火鳥の手を取り、ゆっくりと自分の隣に座らせる。
そっと火鳥の左手を取った。
俺の見慣れた、折れそうなほど華奢で、しなやかな左手。
自分の指で、火鳥の左手のひらに字を書いた。
「『古い』――『月』、と書く」
「……『胡蝶』……」
「そう『胡蝶』だ」
火鳥は、探るように俺を見上げた。
「――意味を、お伺いしても?」
――……んなっ――!
俺は、火鳥の手を離し、ぱっと顔をそむけた。
「意味など、ない!
ただ、なんとなく、だ!!」
かあああああああっ、と顔が熱くなる。
――見られた……だろうか……?
ちらりと横目で探る。
彼女はこちらなど見ていなかった。
火鳥は既に既に立ち上がっていた。
床に落ちていた紅蓮の打掛を羽織り、懐剣の鞘を拾い上げている。
――よ、良かった……。
俺は、彼女の懐剣を差し出した。
斎藤道三が、彼女のために作らせたに違いない、白い螺鈿細工の、美しい懐剣。
火鳥は静かな瞳で、それを受け取った。
静かに、刀身を鞘へと納める。
火鳥は打掛の裾を優雅にさばき、俺の目の前に座った。
作法通り、自分の膝の前の床に、懐剣を横向きに置いた。
両手をつき、頭を下げる。
無駄のない、美しい所作。
「くのいち・胡蝶でございます。
本日只今この時より、我が命尽きるまで。
誠心誠意、命をかけて、和颯様にお仕えする所存でございます」
こうして俺は、妻・胡蝶の主となった。




