〜陽の巻〜
「やっと――。捕まえた」
「――うぅぅ―――っ!!」
火鳥が、燃え上がるような瞳で、俺を見上げた。
「もう、逃げられないぞ」
さすがの火鳥でも、この筋力差と体格差はどうしようもないだろう。
俺は、火鳥の両手を左手だけで押さえた。
右手で自分の頬を拭う。さっきから、そこが痒かったのだ。
何がついていたのだろうと思ったら、血だった。
さっき、火鳥が投げた脇差で、頬を切ったらしい。
――こんなに小さく、折れそうな体つきをしているのに、この俺に傷を負わせるとは……。
俺は内心、舌を巻いた。
――俺は男で。子供のころから毎日、鍛錬していたんだぞ。
俺は、火鳥の両手を見る。
火鳥はまだ、懐剣を握りしめていた。
「なあ、火鳥――。
――もう、いいだろう?」
俺は右手で、火鳥の左手に触れた。
――もう、自害しようとするのはあきらめろ。
その懐剣を、手放せ。
火鳥の両手に力が入り、懐剣を強く握りしめた。
――この期に及んでも、まだ抗うつもりか?
「――力勝負で、勝てると思うか?」
火鳥はまだ、諦めていない。
俺は心の中でため息をついて、火鳥の左手を無理やり、懐剣から引き剥がした。
力加減を間違えたら、折れてしまいそうなそうなほど華奢な指が、懐剣から離れた。
「これは――。
もう、離せ」
――お前のこの細く、しなやかな美しい手は、刃を握るための手ではないだろう……?
俺は火鳥の右手に手を伸ばす。
火鳥の目が、カッと見開いた。
たった今、俺が懐剣から離したばかりの左手が、伸びてきて、俺の顔を引っ搔いた。
大きな犬に追い詰められた、仔猫みたいだ。
――やめろ、火鳥。
お前に――。怪我をさせたくないんだ……。
俺は、必死に抵抗する火鳥の左手を、右肘の下に挟み込んだ。
左手は、しつこく抵抗している。
だが、筋肉量が違いすぎる。
こんなに小さな体で抵抗されても、俺は痛くもかゆくもない。
俺は、いまだに懐剣を離さない、火鳥の右手に触れた。
火鳥は懐剣を握りしめた。
俺は左手の時と同じように、火鳥の右手を剝がそうとした。
火鳥の右手は、膠で固められたようにしっかりと懐剣を握りしめ、ピクリとも動かない。
――強情な奴……。
俺は、一度にすべての指を剥がすことをあきらめ、火鳥の人差し指だけをとらえた。
「――っくぅぅ―――っ!!」
火鳥がうめいた。
目をつぶり、歯を食いしばっている。
俺に全身を押さえつけられ、身動きひとつも取れないくせに、信じられないほどの粘りを見せる。
火鳥が声にならない悲鳴を上げ、激しく抵抗した。
――離せ……。
俺は力づくで火鳥の人差し指を、柄からひき剝がした。
俺の左手が、火鳥の人差し指の腹に触れる。
―――っ!!!!!?
俺は、驚いて火鳥の顔を見た。
火鳥は、さっと顔をそむけた。
中指。薬指。小指。そして、親指。
俺は一本ずつ、彼女の右手の指を剥がしていく。
――嘘……だろ……?
信じられない。
俺から顔をそむけたままの火鳥の目に、涙が滲んでいた。
俺は、火鳥の右手から懐剣を取り上げた。
自分の左手を火鳥の右手の中に滑り込ませ、直に触って確かめる。
俺は、先ほどまでとは違った想いで火鳥を見下ろした。
――ああ、この手は……。
俺は――。
この手を――。
……この手なら――。
――俺も……。
よく――知っている……。
やわらかい手で、刀を握る。豆ができる。
それでも握り続ける。豆が潰れる。
つぶれた豆が治る前に、痛みをこらえて刀を握る。
潰れた豆の中に、新しい豆ができる。そして潰れる。
それを延々と繰り返す。
気が遠くなるほどの時間と、汗と、涙と、苦しみの果てに。
手は、固くなる。
火鳥の右手は、牛の革でできた鎧のように硬かった。
「――火鳥………」
俺も。
この手なら、よく、知っている。
なぜなら、俺の手も、同じだからだ。
「―――この――……。
この、手は―――」
――お前も俺と、同じように。
血を吐くようにして、時にすすり泣きながら。
鍛錬を、積み重ねたのか――。
火鳥はキッ、と俺を見上げた。
火鳥が叫んだ。
「分かったでしょう!?
私は、斎藤道三のくのいちだったのよ!」
――ちょっと待て。
この右手は、いつからだ?
「あなたのもとに輿入れしたのも、織口家を探り、滅ぼすため!
6年間ずっと、あなたを騙し、欺き、裏切って――。
あなたの妻を演じていたのは、くのいち・火鳥なのよ!」
――3年や4年で、出来上がるような手じゃないだろう?
つまり――。
火鳥は俺のもとに嫁いできた時から、ずっと――?
「――そう……だったのか……」
6年間――。
6年間だぞ!?
6年間、俺はずっと、火鳥と一緒にいた。
同じ屋敷で暮らした。笑った。泣いた。慰めた。
抱き上げた。遠乗りに行った。山に登った。抱きしめた。手を――握った。
それなのに、ただの一度も、この右手には気づかなかった――。
火鳥……。
「愚かな人。
美しい幻のまま、あなたの前から消えてあげようと思ったのに」
尋常ではない、ということは分かる。
火鳥は6年間、俺の妻として共に暮らしながら、その間ずっと常に俺の目の前にあった自分の右手から、俺の注意をそらし続けていた。
今の今まで、一度も俺に右手を触らせることなく、しかもその事を不自然だと思わせることすらなかったのだ。
「でもいいわ。
正体を知られたくのいちを、待ち受けているのは『死』あるのみ」
――そうだ。
初めて出会う前から、俺は火鳥のことを斎藤道山のくのいちではないかと疑っていた。
それなのに。
火鳥と過ごすうちにそれが過ちだったと『確信』したんだ。
なぜ――?
こたえはひとつしかありえない。
火鳥が――そう、仕向けたからだ。
亡くなった俺の父上は――。
よく、忍びを使っていた。
その中には、女もいた。
彼女たちと話した事がある。幾人かとは契約し、いくつかの依頼をかけたこともあった。
皆、訓練を積み、誇りを持ったプロフェッショナルだった。
俺は彼女たちを尊敬したし、敬意も表した。
だから、あれが『くのいち』というものだと思っていた。
だけど。
火鳥は――。
同じ『くのいち』という枠でくくることすら憚れる。
桁違い。格が違う。
人がたどり着き得る『最高地点』。
そこを目指したものだけが持つ、凄惨なまでの美しさを、火鳥に感じた。
俺に組み敷かれ、一切の自由を奪われながらも、彼女からはどこまでも揺るぎない、凛とした強さを感じる。
全身から滲み出る気配は震えるほどに気高く、ひざまずきたくなるほどに神々しい。
「くのいちとして生きることを決めた時から、いつでも死ねる覚悟はできているの。
さあ、今すぐここで殺しなさい」
――この俺にそんなことが、できるわけないじゃないか……。
火鳥は賢い女だ。
だが今は、冷静さを失っている。
落ち着け。落ち着くんだ、火鳥。
そして、落ち着け、俺――。
なんとかして、時間稼ぎを……。




