~陰の巻~
「やあっ!」
掛け声と同時に、左足を踏み出す。
手にした脇差を、和颯の左肩から右腰へと、斜めに大きく振り下ろした。
和颯の瞳が瞬く間に鋭さを帯びた。
小さく一歩、踊るように後ろに下がり、切っ先を躱す。
構えられていた鞘が素早く動き、火鳥のもつ脇差を上から叩きつけた。
――想定通りっ……!
火鳥は即座に刀を返す。
わずかに角度を変え、鞘の根元を狙った。
和颯が振り下ろした鞘は、美しい軌跡を描いて脇差の刃をとらえた。
パーン!
和颯の持つ唯一の武器であった鞘が、根元から切れた。
「なっ……」
驚愕の表情を浮かべる和颯。
火鳥は和颯に、考える隙を与えない。
すかさず次の一突きを繰り出す。
一手。
二手。
三手。
小刻みに繰り出される突き攻撃。
折れた鞘でははじき返すこともできず、和颯は足の運びでそれを躱していく。
――ここだっ!
火鳥は渾身の力で脇差を突き出し、そのまま手を離した。
火鳥の手を離れた脇差は、和颯の腹に向かって飛んでいく。
腹は急所だ。
彼は大きく飛び退き、身を逸らすはず。
――今だ!
火鳥は飛んでいった脇差には目もくれず、足元の懐剣に飛びついた。
父の形見を素早く拾い上げる。
即座に自分の喉を一突きに――。
「何すんだっ!!」
肩への衝撃。
視界が反転し、床に押し倒されたことを知る。
肩への衝撃。火鳥は悲鳴を上げた。
ねじりあげられた両手首に大きな掌がかぶさり、そこがひどく暖かい。
即座に反撃しようとした火鳥の脚の上に、もっと大きな脚が重なった。
ねじろうとする躰を彼の胸板が押さえつける。
それでも火鳥はもがいた。
両手両足にかかる力が強くなり、上半身も押さえつけられた。
全身が、押しつぶされそうだ。
「―――っ!」
――身動きが取れない。
力の差は圧倒的だ。体格差も。
それでも火鳥は全力でもがこうとし続けた。
和颯は無表情に眉根を寄せ、黙って押さえつけている。
彼の切れた頬から一滴の血が垂れ、火鳥の耳元を濡らした。
和颯は、決して大柄ではない。
それでも、ほんのわずかの身動きさえ許されぬほどに、あっさりと奪われた身体の自由。
各務野は――。女だが大柄で、体つきもがっちりしていた。
各務野ならば、この状況でもきっと、勝機を見出していたはずだ。
『この体格で、生き延びるのは無理でしょう』
初めて会った日、ちらりと火鳥を見た熊蜂は、道三に向かってはっきりとそう告げた。
『危険な任務です。正体を知られることもあるでしょう。
そんな時、最後に身を守るのは、結局、物理的な力なのです。
すぐに死ぬような娘に稽古をつけるなど、時間の無駄。お断りします』
あの時。
道三が床に積み上げた金粒の袋を見て、熊蜂はめんどくさそうに顔をしかめていた。
とうとう積み上げた袋の中から3つだけをつまみ上げ、こう言った。
『ならば、お望み通り、この娘に稽古をつけましょう。ただし、3日の間だけ』
稽古は厳しかった。
それでも火鳥は喰らいついた。
熊蜂は、4日目の朝もそこにいた。
いつの前にか『各務野』と名を変え、常に火鳥の傍にいるようになった。
自分が体格に恵まれていないことくらい、分かっている。
それでも、人の何倍も努力すれば、いつかはきっと報われると思っていた。
ついに火鳥は力尽きた。
練習量が。足りなかったとは思えない。
――どれだけ一生懸命に訓練しても、最後には、持って生まれた体格がものをいう。
それじゃあ、今まで自分が、血を吐くようにして積み上げてきたものは、いったい何だったんだろう……。
申し訳ありません、師匠。
結局、師匠につけていただいた稽古はすべて、無駄だったようです。
虚しい。やるせない。
女としてもくのいちとしても出来損ないの自分は、いったい何だったのだろう。
せめて。
せめて小柄な男か、人並みの体格の女として生まれていれば……。
涙が、零れそうになる。
――くのいちは、泣かない。
火鳥は両目に力を籠め、流れ落ちそうな涙を目の奥に押し返した。
彼の息も荒い。
「―――っぷ、はあ……。
これで、終わりか?」
和颯が両手両足で火鳥を押さえつけたまま顔を上げ、火鳥を見下ろした。
火鳥は唇を噛んで目をそらした。
「やっと――。捕まえた」
「――うぅぅ―――っ!!」
悔しい!
悔しい!!
悔しい!!!
あと少し。ほんのもう少しだけでも身体が大きければ……。
あんな体当たりには負けなかったはずだ。
――弱者は、自らの意志で死ぬことすら許されない……。
火鳥は、圧倒的な筋力差で自分を押さえつける男を睨みつけた。
「もう、逃げられないぞ」
和颯が、手を動かした。
左手で火鳥の両手首をまとめて押さえつけたまま、右手で自分の頬をこすった。
彼の頬は浅く切れていて、滲んだ血が彼の右手に付着した。
和颯は少し驚いたようにその血を一瞥すると、火鳥の頭上――懐剣を握りしめたまま、ねじりあげられた火鳥の両手――に視線を移した。
「なあ、火鳥。
もう、いいだろう?」
彼の右手が、火鳥の左手に触れる。
火鳥は両手で、懐剣を強く握りしめた。
「力勝負で、勝てると思うか?」
低い声がつぶやいた。
火鳥は精いっぱいの抵抗を試みた。
和颯の手が――剣を握り続け、豆だらけになった、固く大きな右手が――火鳥の華奢な左手を掴み、懐剣から引き剝がした。
火鳥が懐剣を握る手は、右手だけになった。
彼は、火鳥から懐剣を取り上げようとした。
「これは――。
もう、離せ」
―――嫌ですっ!!!
火鳥の右手首は、和颯の左手で押さえつけられている。
火鳥は左手で和颯の顔を引っ掻いた。左手一本で全力の拒否を示す。
必死に抵抗する火鳥の左手は、すぐさま和颯の右肘の下に挟み込まれ、押さえつけられた。
床に片肘をつく不自然な姿勢をとりつつも、圧倒的に優勢な和颯の両手が、懐剣を握りしめる火鳥の右手に触れる。
火鳥は右手で、いっそう強く懐剣を握りしめた。
和颯は火鳥の指を剝がそうとする。
火鳥は右手の指に力を籠めた。
和颯は火鳥の指を剥がせない。
和颯の右手があきらめたように一旦離れ、火鳥の人差し指だけをとらえる。
毎日、毎日、ただひたすらに刀を握りしめ、指先まで固くなった彼の右手。
その力が、火鳥の人差し指だけにかけられた。
「――っくぅぅ―――っ!!」
最後の、全力の、抵抗が、和颯の両手で打ち砕かれる。
火鳥の人差し指が、柄から離された。
彼の動きが、一瞬、止まった。
涙が、滲む。
中指、薬指、小指、そして親指。
すべての指が柄から剥がされ、懐剣が取り上げられる。
代わりに彼の左手が入り込んだ。
彼の左手が、火鳥の右手をまさぐった。
「――火鳥………」
彼は驚愕と戸惑いの表情で、火鳥を見下ろした。
「―――この――……。
この、手は―――」
火鳥はキッ、と和颯を見上げた。




