~陰の巻~
「火鳥っ!! やめろ――っ!!」
肘に、容赦のない衝撃が走る。握りしめていたはずの懐剣が宙を舞った。
――しまった!
織口和颯の速さと強さを、過小評価していた。
己の未熟さを呪う。
そのまま火鳥を抱え込もうとする腕をなんとか躱し、後ろへ飛び退いた。
ぎりぎり、手の届かない距離。
織口和颯が、震える声で囁いた。
「火鳥………。
今、何をしようとしていた……?」
見て、お分かりになったでしょう?
――自らの命を、断とうとしておりました。
織口和颯が、こちらへ一歩、踏み出した。
火鳥は同時に、一歩分だけ後ろに下がった。
「……邪魔を――しないでください」
心を、沈める。
私はくのいち・火鳥。
あなたの隣であなたをだまし、あなたの妻としての仮面を維持し続けることが苦しくなってしまいました。
それでも。
忍の命は主のもの。父の為ならと血を吐く思いで生きて参りました。
ですが、その父も亡くなりました。
――もう、逝かせてください。
「何を言っているんだ!?
勝手に死ぬな!」
わたくしの命は、わたくしのものでも、和颯様のものでもありません。ただ、わたくしの主・父のものでした。
「わたくしがいつどうやって死のうが、和颯様には関係――」
「あるに決まっているだろう!」
彼が叫んだ。
「俺の――妻じゃないか!!」
そう。
6年前、貴方に輿入れした事こそが………。
そもそもの間違いの始まりだったのです。
彼はもう一歩を踏み出した。
火鳥はさらに一歩下がった。
――お願いですから……。
もう、これ以上近づかないで。
あなたと出会う時。わたくしはあなたを、欺きました。
私は、火鳥。
斎藤道三様の、薄汚いくのいちなのです。
この6年間、演じ続けたのは、あなたを欺くためのかりそめの姿。
どうか。あなたが信じた美しい幻のまま、消えさせてください。
目の前に立つ、織口和颯の身体から、焦燥感が滲み出る。
目の前で人が死ぬのが、耐られないのだ。
既に、目の前で何百人もの戦死を見届けてきたくせに、未だに1人の死にも慣れないなんて。――とても、彼らしい。
父は――。戦死者について語る時、ずっと昔に食べ終わった魚の骨について語るように話していた。
彼は。昨日亡くなった親族について語るように話す。
自分が消えたあとも、そのままの彼でいて欲しいと願うこの想いは、とても身勝手だと自覚している。
彼が、顔に戸惑いを残したまま腰を落とし、火鳥を正面に見据えて、構えた。
彼が、日々鍛錬しているのは知っている。
体格も、筋力も。体力も、素早さも。
真っ向勝負なら、勝ち目はない。
だけど。
――わたくしが積み重ねたのは、格上の相手から逃げ切る技。
錯覚と、不意打ちを駆使した一点突破だ。
火鳥は目を細めた。
彼の全身を観察する。
彼は迷い、焦っている。
焦る敵を、欺くのは、とても容易い。
彼の目つきが鋭くなった。
――来る!
彼は僅かな予備動作で地面を蹴って、一気に火鳥との距離を詰めた。
火鳥の両腕を掴むべく、自分の手を伸ばしている。
でも彼ならきっと、そう来ると思っていた。
――分かりやすい人……。
火鳥は僅かに両手を広げ、伸び上がる。ほんの少しだけ、体を大きく見せる。
彼が、大きくなった火鳥の、両手があるべき位置――実際の火鳥の腕よりも外側――を掴んだ。
――空蝉……!
火鳥は即座に身をかがめ、打ち掛けからすり抜けた。
火鳥の脱いだ打掛だけが、和颯の腕の中に残された。
その場に低く屈みつつ、彼の腰に差さっている、脇差の柄を掴み、抜き取った。
…… カチャッ ……
脇差が、鞘から抜ける音。和颯がぎょっとしたように打掛を見る。
彼は即座に、手にした打掛を投げ捨てた。
火鳥は、手にした脇差の先を、あえて和颯の目の前に据えた。
彼の眼にはきっと、突然目の前に、鋭く尖った切っ先が現れたように見えたはずだ。
彼が驚愕の表情を浮かべ、ぱっと後ろに飛び退いた。
その反射の速さと跳躍力は、見事だ。
さすが。日々の練習を怠っていないだけのことはある。
だが。既にこの攻防は、火鳥がペースを握っている。
彼は火鳥から目を見つめたまま、左手だけを動かした。
腰の刀を探る。脇差が抜かれ、鞘だけになっていることを確認する。
織口和颯の顔がみるみるうちに強張っていく。
――さあ、もっともっと、動揺してくださいませ。




