〜陽の巻〜
「火鳥っ!! やめろ――っ!!」
夢中で火鳥の、肘を殴り上げた。
火鳥の喉を切り裂く寸前の懐剣が、弾かれたように宙を舞い、部屋の隅に落ちた。
火鳥の瞳が、たちまち冷気を帯びた。
俺はそのまま火鳥を抱え込もうとした。
火鳥はするりと身を躱し、俺の腕の間をすり抜けた。
そのまま後ろへ飛びすさり、打ち掛けの裾をさばく。腕2本分の距離があいた。
「火鳥………。
今、何をしようとしていた……?」
俺は火鳥へ向かって、一歩を踏み出した。
火鳥は同時に、一歩分だけ後ろに下がった。
「……邪魔を――しないでください」
火鳥は、俺を見た。
虚無。
火鳥の瞳からは、一切の感情が消えていた。
怒りも、憎しみも、悲しみすらも。何もなかった。
……氷姫………。
俺は、祝言の日の火鳥を思い出す。
あの日から6年。
俺たちは毎日、少しずつ、本当に少しずつ、互いを意識し合い、相手の事を知りながら、手探りで歩み続けてきたはずだ。
俺の指先はもう少しで、火鳥をかたちづくる大切な何かに、触れられそうな距離にまで近づいていたはずだと信じている。
それなのに――。
「何を言っているんだ!?
勝手に死ぬな!」
長い時間をかけてゆっくりと近づいていたはずの距離が、一瞬で遠ざかっていくような焦燥感。
まるで、『振り出しに戻る』みたいに。
火鳥は……いったい何処へ行こうとしているんだ?
――戻ってこい! 火鳥!!
「わたくしがいつどうやって死のうが、和颯様には関係――」
「あるに決まっているだろう!」
俺は叫んだ。
「俺の――妻じゃないか!!」
それなのに。
たった一人で……。
俺を置いて。
何処かへ行かないでくれ!
俺にとって火鳥はもう、別の人と同じに括れる「誰か」じゃない。
隣にいてくれないと気が狂いそうになるほどに、かけがえもなく大切な唯一無二なんだ。
俺はもう一歩を踏み出した。
火鳥はさらに一歩下がった。
火鳥は油断なく姿勢を低くし、鋭く俺を睨みつけた。
火鳥は賢い女だ。
それなのにこの状況で、俺から逃げられるとでも思っているのだろうか。
ここには、俺と火鳥の他には誰もいない。
体格差は歴然としている。
『一騎打ち』が望みか?
――良かろう。
受けて立とうじゃないか。
俺は男で。
戦闘訓練を重ねた大人の武士だ。
思い出せる限り、鍛錬を怠った日は1日たりとも無いんだぞ。
俺は腰を落とした。
気を鎮める。
臍の下・丹田に力を込める。
息を整える。
相手の出方を探る。
まだ、火鳥は仕掛けてこない。
――ならば、俺から。
俺は前触れなく地面を蹴って、一気に火鳥との距離を詰めた。
火鳥は俺の目の前だ。
俺はすかさず火鳥の両腕を掴む。
この両手に、間違いなく手応えを感じた。
ところが。
確かに何かを掴んだ手応えがあったのに、俺の手元に残っていたのは、艶やかな紅蓮の打ち掛けだけだった。
俺は自分の目を疑う。
火鳥を失った打ち掛けが、俺の両手の中で力なく垂れた。
…… カチャッ ……
刀が鞘から抜かれる音。
背筋が凍る。
俺は手にした打ち掛けを投げ捨てた。
鋭く尖った切っ先が、俺の目の前にあった。
考えるより早く、後ろに飛び退く。
火鳥が、彼女には大きすぎる脇差をこちらに向けて構えていた。
――あの脇差は……。
俺は火鳥から目を逸らさずに、左手だけを動かして、自分の刀に触る。
俺の腰に指してあった脇差が、いつの間にか鞘だけになっていた。
俺の背中に、冷や汗が流れた。
火鳥は油断なく、俺の腰から抜いた脇差を構えている。刀3本分の距離。
美濃へ出陣したのは一昨日だ。さっきまで腰に差していた脇差は、いつも以上に時間をかけてしっかりと研いである。いくら火鳥が非力でも、万が一あれで急所を刺されたら、大怪我では済まないだろう。
――落ち着け、俺……!
この先に、必ず。
チャンスがあるはずだ。
早まるな――!
俺たちは長い時間、硬直状態となった。
外から、小鳥の声がする。
俺は、乱れた呼吸を整えた。
最初は、気のせいかと思った。
だが、少しづつ、明らかに……。
俺の前で、脇差の先が不安定に揺れはじめた。
そういえば。昨日、少年に扮した火鳥が持っていた脇差は、もっとずっと細く短く、小ぶりだった。
火鳥の動きは鮮やかだ。昨日は血まみれになってはいたが、火鳥自身は怪我は負っていなかっという。
俺は火鳥を医者に見せるよう主張したのだが、一益が「新たに滴る血がないから、出血はない」と主張し、そのまま強引に寝室に運び込んだのだ。
とにかく火鳥には、何らかの武術の心得があることは間違いない。
それでも……。
俺の脇差では、火鳥には、重すぎるのだろう。
俺は、腰に残っている太刀の柄に手をかけた。
いくら火鳥に武術の心得があったとしても。重すぎる武器では動きが鈍る。
俺は、武士・織口信秀の長男だ。
剣術なら、物心ついた時から叩き込まれてきた。しかもこの太刀は、俺の愛刀だ。
この太刀を抜いて本気で戦えば、さすがに負けない自信は、ある。
だけど。
火鳥の動きと実力が未知数だ。
刀の傷は致命傷にもなりうる。
自分が太刀を抜きつつ、火鳥に怪我をさせずに抑え込むことができるという、絶対的な確信までは、持てなかった。
俺は太刀を腰から外す。
火鳥を刺激しないよう、じわじわと腰をかがめた。
俺が太刀を抜けないなら、この太刀はここに無い方が良い。脇差に続いて火鳥に太刀まで抜かれたら、状況はさらに悪化する。
俺は太刀を床に置き、鞘ごと部屋の外まで滑らせた。
これで、火鳥が太刀を手にすることはないだろう。
俺は丸腰になった。




