〜陰の巻〜
『萌へ
あなたを残して、先に旅立つことを許してほしいの。
初めてあなたに出会った日のことを、今でもはっきりと思い出すことができる。
あなたは、まだきちんと数も数えられないくらいに幼かったけれど。周りにいるすべての人に、真摯に丁寧に、陰日向なく接していたわ。
可憐で、無垢で、純粋で。素直で、優しく、穢れがなくて。
――私とは正反対だったわ。
私は。初めて。
この世に、こんなにも美しく尊いものがあるのだと知り、全身が震えるほどの衝撃を受けたの。
和颯様はとても優しい人なので、私がいなくなったとしても、あなたを邪険に扱ったりはしないでしょう。
それでも何か困った時は、滝川一益を頼りなさい。
必ず力になってくれます。
あのね――。
私は。父のために生きてきたのよ。この命は、父に捧げると誓ったの。
胸を張って人に話せるような生き方ではなかったかもしれないけれど、私は私自身の信念に従って、誇りを持って生きてきたつもりです。
これまでずっと、その生き方に疑問を持ったことはなかったの。
それなのに。
尾張に嫁いで。
体の奥底から笑って、魂を削るほどに泣いて、どうしようもなく戸惑って――。
常に自分の信念に従いながら、目の前の人と共に過ごす。たったそれだけのことが、それまで何の苦もなくできていたことが、今ではもう、信じられないくらいに苦しくなってしまったの。
そして昨日。私の全てだった父が死に、私は生きる理由を失いました。
私は今まで、たくさんの嘘をついてきた。多くの人を騙し、裏切り、傷つけた。
ごめんね、萌。
あなたのことも、騙してた。
私はあなたに、嘘をついたことはないけれど、あなたに話すべきことを話さずに、ずっと黙っていたのだから、同じことよね。
許して欲しいなんて言わないわ。
それでも。
あなたの幸せを願うこの気持ちだけは、嘘じゃなかったと信じてほしい。
とても。とても。とても。とても。
心の底から。あなたを愛し―――』
火鳥は顔を上げた。
聞き慣れた足音が、つんのめりながら廊下を走ってくる。
――ああ。時間切れ。
火鳥は、手紙を書き終えることを諦めた。
速やかに筆を置き、部屋の真ん中に用意しておいた懐剣を手に取った。
織口和颯には『馬に乗る』と伝えておいた。
あの時の彼は、間違いなくその言葉を信じていたはず。
想定外。少なくとも、あと2時間は稼げると思ったのに。
スパ――ン
勢いよく音を立て、扉が開いた。
困った人。
いつだって、こちらが驚くほどあっさりと騙されるくせに。
大切な時はいつも、土壇場で、ひっくり返そうとする。
思いかえせば。
初めて出会ったときからずっと。そして最後まで。
彼はとても、勘が鋭い。
――でも少し、遅かったみたいね。
火鳥は懐剣の鞘を抜き、天を仰いだ。
そのまま、一思いに喉を突き刺し――。
「火鳥っ!! やめろ――っ!!」
ダンッ! と床を蹴る音がした。
肘に、信じられないほどの強い衝撃を受ける。握りしめていたはずの懐剣が宙を舞った。




