本家
「信勝――っ!!」
本家の門前で馬を乗り捨て、俺は屋敷へ走った。
「兄さんっ!
屋敷の前で騒がないで!!」
険しい顔の信勝が顔を出し、俺は安堵のあまり泣き崩れそうになる。
「……良かった………。
信勝――。お前が無事で――……」
俺は信勝に駆け寄り、信勝の体を抱きしめた。
「ちっとも良くない。
今日は朝から大変で――」
そこまで言いかけて、信勝ははっと息を呑む。
「まさか――!
兄さん、そっちでも何かあったの!?」
信勝は、俺を屋敷の中へ招き入れた。
廊下には、幼子特有の、無邪気で舌っ足らずな笑い声が響いている。
母上と侍女達が、夢中になって信澄の機嫌を取っている声も。
「――信勝は、大きくなったか?」
信勝が、ちらりと俺を見た。
「――何でも、口に入れようとするんだ。自分の足の親指さえも。
恐ろしい速さでそこらじゅうをハイハイするから、目が離せない。
信澄が這いまわった後には、カタツムリが這った後のような、よだれの跡が残る。
まだ言葉は話さないが――こちらの言う事はかなり理解している。
――屋敷中の、皆が夢中だ……」
一生懸命しかめっ面を作ろうとしている信勝。それなのに、今にも笑みが零れ落ちそうだ。いつの間にか父親の顔になっている。
俺の知らない信勝が、そこにいた。
――そうか……。いいな。
俺の口元が、緩む。
俺は今朝まで信澄の寝室だったという部屋に通された。
「ここに、こう、信澄が寝ていたんだ」
信澄の枕元にあたる場所に、無残に殺された雀の死骸がある。
雀には、二本の懐剣が突き刺さっていた。懐剣は床まで貫通している。
まるで俺たちに見せつけるように、羽を広げた雀の死骸が床に固定されていた。
「――市が、かわいがっていた雀だ。
刺さっている懐剣は、俺と、母上のもの。
俺も母上も、昨夜は間違いなく、懐剣は自分の部屋に置いて寝ていた――」
いつの間にか俺の後ろに控えていた一益が唸った。
「信澄様はもちろん、信勝様、お母上、そしてお市様。
――いつでも、簡単に暗殺することができる、という脅しのように感じます」
信勝は、その場でゆるゆるとうずくまった。
握りしめた自分の両手を見つめている。
俺は膝をつき、信勝を抱きしめた。
信勝が、力のない目で俺を見上げる。
「兄さん――……。
俺は……。今川家に従う。
俺たちみたいな、尾張の端に勢力を持つ、小さな地方豪族にすぎない織口家が、桁違いに強大な今川家にたてつこうとしたのが、そもそもの間違いだったんだ。
義元がその気になれば、俺たちを壊滅させるのなんて、赤子の手を捻るようなものだ――」
そうかもしれないけど。
でも。
そんなことをしたら、俺たちの部下や農民の皆まで、今川家の奴隷になってしまうじゃないか!
「信勝、思い出せ。
今川家は――」
「俺はっ!!!」
信勝が俺を睨みつけた。
「織口家と、信澄を。
守る――義務がある。
――何があっても、だ」
今度は、俺が黙る番だった。
「これは卑怯な脅しだ。
今川義元が、聖人君主じゃないことは分かった。
従ったらダメな相手だということも。
だけど――。
力量差は、圧倒的だ。
俺は――。
父親で。
織口家の当主だ!
たとえどんな犠牲を払ってでも……。
――跡継ぎを、失うわけにはいかない……」
そうかもしれないけど。
でも……!
「――確かに織口家は弱小だが……。
俺たちには、斎藤道三殿がいるじゃないか。
道三殿は俺の――義父だ。
いざとなったら――。
きっと力を貸してくれる」
……たぶん、だけど………。
必要なら、土下座してでも――……。
「――道三さまが。兄さんを買っているのは知ってる。俺たちの親戚なのも。
兄さんが道三さまに会いに行ったことがあるのも。
道三さまが兄さんのために援軍を出したのも。
だけど! 道三さまがいるのは美濃じゃないか。
四六時中、この場所にいて、目を光らせてくれているわけじゃない。
次に、今川義元が刺客を送り込んだら――。信澄は殺される。
まだ、生まれて一年も経っていないんだぞ!?
今、信澄が殺されたら、俺は――。きっと。もう、生きていけない」
おずおずと口に出してみる。
「――でも………。
子供なら、また作ればいいじゃないか……」
きっ、と信勝が俺をにらんだ。
「信澄は、この世に一人きりだ!
代わりなんていないんだよ!
一度も親になったことがない兄さんには分からない!!
俺は、信澄を――失いたくない!!
何があっても絶対に、だ!!」
俺は、目をそらした。
俺たちは、目を合わすことなく、そのまま黙り込んだ。




