夜明け前
本当に、夜明け前に起こされた。
一益が、俺の名を呼んでいる。
俺は起き上がった。
火鳥はもう、俺の隣にはいなかった。
「急げ。出かけるぞ」
一益はもう、着替えていた。
俺も、渡された着物に慌てて袖を通す。
「出かけるって――。どこへ?」
「――行けば分かる」
厩には、身支度を終えた火鳥がいた。
二馬が二頭、いつでも出発できるように準備されている。
火鳥が、馬の蹄や口の中、瞳の色などを、何度も確認している。怪我がないか、体調が悪くないかを、慎重に確かめているようだった。
「馬は――?」
一益が火鳥に尋ねた。
火鳥は真剣な顔つきのまま、一益を見た。
「おそらく――問題ないと思う。
でも、時間が経たないと分からない事もあるから……。
大切な馬は、今日は走らせない方が良いわ」
――どういうこと?
俺は一益を見た。
「――忍は……。
屋敷に忍び込む前に、馬に危害を加えておくことがある。
逃走時、自分が馬で追いかけられるのを防止するためと、敵の伝達手段を奪い、混乱を助長させるためだ」
――ふうん……。
俺は、用意されていた馬に跨った。
火鳥の馬を見る目は確かだ。火鳥が大丈夫だと言ったのなら、きっとこの馬は大丈夫だ。
だけど。――なんだか、もやもやする。
「お気をつけて」
火鳥が頭を下げた。
あ――……。
――どこに行くのか、とか。聞かないんだ……。
俺と一益は、かじかむような清州の町を出発した。
火鳥は、俺たちの目的地を知っている。
――なんとなく、そんな気がした。
俺が寝ている間に、一益と火鳥は、二人だけで何か話したのだろうか。
そんなこと、どうでもいいだろう、と自分に言い聞かせる。それでも気持ちがざらざらする。
清州の町を抜けると、一益は無言で馬を走らせた。
俺も黙ってついていく。
指が切れそうなほどに冷え切った手綱。
馬の動きと連動するように俺の体温を奪う風。あまりの冷たさに耳が痛くなる。
規則正しい振動と蹄の音。
俺は昨夜の事を思い出す。
ほんの数時間前なのに、遠い昔みたいだ。
一益は、命を張って、俺を侵入者から守ってくれた。
それは、間違いない。
俺と一益が侵入者と戦っている間、火鳥は一益の部屋にいた。
そのおかげで、火鳥が無事だったことは本当に良かったと思っている――けど。
何かが引っかかる――。
火鳥が一益の部屋にいた理由は、夜中に火鳥が不審な音を聞き、一益を起こしに行ったからだと聞いている。
確かに、俺じゃなくて一益を起こしに行ったというのは、ちょっと癪だ。
でも、一益には忍の心得がある。
俺が火鳥だったとしても。夜中に不審な物音を聞いたら、俺じゃなくて一益を起こしに行くだろう。
実際、一益のおかげで俺は死ななかった。だからそれは、正しい判断だったんだ。
でも。
そうならそうと、素直に言えばいいじゃないか。
一益の部屋にいた理由を尋ねた時、火鳥は即答せず、体をこわばらせた。
何か、俺に言えないような理由でもあったのだろうか。
そこまで考えて、俺ははっとする。
深夜に。
女が、男の部屋にいた。
真っ先に思い浮かぶ理由は――。
――密通――
まさか!
俺たち武士は、血統を重んじる。
主君の妻を寝取るなんて、裏切り中の裏切りだ。
一益に限ってそんなこと……。
だけど、火鳥と一益の関係性が特別なのは、間違いない。
いや、それでも。ありえない。
火鳥だって。
妻の密通は、打ち首だ。
それに。俺と火鳥の間に子供はいない。
離縁するチャンスなんて、いくらでもあったはずだ。
わざわざ危険を冒して密通なんかしなくても、離縁してから堂々と再婚すればいい。
それとも――火鳥はずっと、俺と離縁しようとしていた……のか?
俺が無理やり引き留めたせいで、いつまで経っても離縁できず、とうとう密通を――?
嫌だ!
嘘だろ。
そんな……。
でも、そういえば――。
「火鳥はここにはいねぇ」
昨夜、確かに、一益はそう言った。
一益はいつだって火鳥のことを「火鳥様」と呼んでいる。
それなのに。
昨夜は「火鳥」と呼び捨てにしていた。
あの時の一益は、切羽詰まっていた。
言い間違えた、のではない。
普段いつもそう呼んでいるので、つい、そう言ってしまった――。
そんな風に感じた。
――嫌だ――
イヤだイヤだイヤだ
一益に裏切られているかもしれないという猜疑心も。
命を張って俺を守ってくれた一益を、信じきれない自分も。
火鳥が一益と情を通じているという想像も。
裏切りはとことんまで追及してやるぞという憤りも。
望まない事実からは目を背け続けていたいと思う、弱い心も。
――嫌だ――
この、名前も付けられない不愉快な気持ちを、体の中から掴みだして引きずり出して、血がにじむまで搔きむしってしまいたい。
「おい、和颯――大丈夫か……?」
一益が、声をかけてきた。
「顔色が悪いぞ」
一益が、心配そうな表情を浮かべている。
気遣わしげに俺の顔を覗き込む。
しっかりしろ、俺。
一益を疑うなんて、どうかしているぞ。
だけど、これも、演技だとしたら……?
――俺はもう、誰も信用できない。




