~陰の巻~
織口和颯が言った。
「お前の部屋の前まで送ってやる」
「でも……」
「いいから」
信勝が口を開いた。
「兄上がうらやましいです。私も、早く、火鳥義姉さまのような人と、結婚したいです」
――わたくしも、できれば、信勝様と結婚したかったです。そもそも、予定では、織口家の跡継ぎ、つまりは信勝様と結婚するはずだったのです。
口には出せない言葉を、呑み込む。
左手は、織口和颯の鍛え抜かれた右手に、がっちりと掴まれている。逃げられない。
かといって、萌の侍女たちのいる部屋にも行けない。ものすごく嫌われているから。
仕方なく、火鳥は自分と各務野が使っている部屋の前まで歩いて行った。
「――ここを、お前の部屋にしたのか」
「はい。和颯様に頂戴した二部屋のうち、一部屋を使わせていただいております」
不自然なのは分かっている。
「あちらの部屋は不満だったか? ここより広いし、日当たりも良いだろう」
火鳥としては、この部屋を気に入っているのだが。――もちろん、織口和颯には言えない。
火鳥は表情を読まれないよう、顔を伏せた。何と答えようか。
――ああ、そうだ。
「――萌の境遇は、既に、お聞きになりましたでしょう?」
「聞いた」
「萌には――多くの侍女たちの助けが必要です。
わたくしは、各務野だけがいれば十分です。
あちらの方が広かったので、萌と侍女に使わせることにしました」
――嘘ではない。
「でも、ここでは俺が主人で、お前は俺の妻だ」
火鳥はしおらしく呟いてみた。
「……お気に障ったのでしたら、お詫びいたします……」
――こんなにいい部屋は、手放したくない。
萌が使っている部屋は、庭には面しているが、庭を囲む塀が高い。だから、いざという時、屋敷の外に逃げるのが困難だ。
こちらの部屋は、屋敷の隅にある。四方の壁のうち、一方は廊下に、二方は外に繋がっている。つまり、逃走経路が複数ある。
さらに、部屋の外に出れば目の前は低い塀だ。この塀を乗り越えると、屋敷の外に逃げられる。正体がバレて殺されそうになった時にも安心だ。
さらに床板が外れかけている場所があり、凶器の脇差を隠す事までできる。
こんなに使い勝手のいい部屋は、なかなかない。
この部屋を使い続けるためなら、土下座の一つや二つ、何でもない。
火鳥がその場で膝をつこうとしたら、慌てたような声がした。
「いや、怒ってはいない。謝罪も不要だ」
火鳥の腕を体ごと、軽々と引っ張り上げられた。
「――ただ、疑問に思っただけだ。理由を、聞かせてくれないか」
彼の瞳がまっすぐに火鳥を見た。
――今ここで嘘をついたら、バレる!
嘘ではない答えを探すのに、少し時間がかかった。
「わたくしは……萌にだけは、幸せになってほしいのです――」
これも火鳥の、本当の気持ちだった。
「ちょっと待て。もう少し話を――」
火鳥の手を握る織口和颯の握力が弱まった。
火鳥は、すぐさま自分の左手を引き抜いた。
「送っていただき、ありがとうございました。では――」
火鳥はするりと部屋の中へ滑り込み、扉を閉めた。




