カワセミ
火鳥はまだ、額を床につけたままだ。
俺は軽い口調で話しかける。
「おうおう、これが噂の『姑の嫁いびり』ってやつか?
正妻に化けるのも楽じゃねぇなぁ」
俺は、火鳥がくのいちの顔をあげ、冷ややかな声で何か言うのを期待した。
だが、火鳥は顔をあげなかった。
俺はたじろいだ。
「………土田御前から説教されるのは――今日が、初めてか?」
くぐもった声。
「……いいえ、違うわ……」
――だよな。
武家にとって、自分達の子孫を残すことは、最重要使命の一つと言っていい。
結婚して、5年も経つのに、子供の一人も生まれていないなど、大問題だ。
那古野の屋敷の者は皆、必死になって和颯の側室を探している。子供が生まれないまま和颯が死ぬと、たちまち自分たちまで路頭に迷う。全員真剣だ。
それなのに、誰がどんな女を連れてきても和颯が首を縦に振らないので、貞じいはほとんど発狂しそうになっている。
「――おい、火鳥」
「……なに?」
火鳥は床に手をついたままだ。
「………俺の、目を見ろ」
「――何よ?」
火鳥は顔を上げ、俺を見た。
―――ああ。これは、もう。
………駄目だ……。
俺は低い声でつぶやいた。
「―――お前。美濃に戻れ」
「……無理……」
「――いや。帰れ。今、すぐだ」
――俺は。お前のような顔をしたくのいちを、何人も見た。
そいつらは、もう、この世にはいない。
なぜならすぐに、命を落としたからだ。
「屋敷の前に、俺が乗ってきた馬が繋いである。
このまま屋敷を出て、その馬に乗って――。美濃に戻れ。
……あとのことは、何とかしておく」
――お前のその感情は……。
くのいちの、命を奪うやつだ。
「――お前は、尾張で……深入りしすぎた。
――これ以上、ここにとどまるのは危険だ」
「…………美濃には……戻れない……」
消え入るような声が答えた。
「……私は……。
……父に命じられた任務を遂行できなかった。
もう一度、同じ任務に挑んでも――。多分、遂行できない……」
「――どんな任務だ?」
「……言えない。
依頼内容は、たとえ死んでも明かさない――知ってるでしょ?」
――おいおい。マジかよ。
「……任務に失敗したくのいちは『消される』と聞いたわ……」
「おい、話が飛躍しすぎだろ」
いくら何でも一度や二度の失敗でいきなり『消され』たり――
「カワセミは、任務に失敗したくのいちを『消した』ことはある?」
俺は黙った。
「――……ある。
昔の……話だ……」
――あれは、嫌な仕事だった。
「私は……。
知らない忍びに『消される』くらいなら、カワセミに殺されたい――」
「ちょと待て!
『忍びの命は主人の物だ』って――教えただろう!?」
――勝手に死ぬな!
「――ああ。そうだったわね……」
火鳥は力なく微笑んだ。
「じゃあ……。せめて――。
どうせ『消される』なら、綺麗に消えたいわ……。
もしも私が『消され』たら。
カワセミが一番に、私の死体を見つけてね?
他の誰かに見つかる前に、私がくのいちだった形跡を消してしまって欲しいの。
胸の傷が残らないほどにめった刺しにして、手首を切り落として川に――」
「ふざけんな!
俺は死んだお前を切り刻む役なんて、まっぴら御免だ!」
俺は火鳥の肩を掴んで揺さぶった。
「和颯に! 何もかもぶちまけちまえよ!!
『私は、くのいちでした。胸元には傷があります』って!
和颯の懐は深い。あいつなら――きっと、くのいちとしてのお前も受け入れる。
必ず力を貸してくれるはずだ!」
「嫌よ。
そんなことをしたら、父上の秘密が漏れるじゃないの。
斎藤家が織口家に、くのいちを送り込んでいたこともバレる。
私の過去の『夫』は、父の指令で私が殺したのよ?
――父が。彼らを暗殺したことが、明るみに出るわ。
私は、もうただの女には戻れない。
くのいちとして生きることもできなかった。
だけど――」
火鳥の瞳の奥が強く光った。
「私はまだ、裏切り者じゃない」
火鳥の右手が、火鳥の肩を掴む俺の手を、静かに押し返した。自分の肩から俺の手をどかす。
誇り高く美しい、くのいちの、手。
火鳥は、静かに熱く燃えるような目で俺を見た。
「主の秘密は、死んでも守る。
――主を裏切ったくのいちとして生きるくらいなら、このまま死んだほうがマシ」
低くはっきりと言い切る。
「――だけど……そもそも。
任務に失敗したからって、すぐに『消される』訳じゃないだろ?」
「………」
斎藤道三が、火鳥を大切にしていたのは間違いねぇ。
多少任務に失敗したからと言って、簡単に『消し』たりはしないはずだ。
――ただの、俺の勘だけど。
「それでも。
本当に『消され』そうになったら、俺がどんな手を使ってでも――」
「いいえ。必要ないわ」
「………。
なぁ、火鳥。
お前は覚えていないかもしれないが――。
俺は、お前に。命の借りがある。
借りた命を返さないのは、忍の恥だ。
だから、これは、俺のためだ。
本当にお前が『消され』そうになった時は……。
すぐに、俺のところへ来い。
俺が、必ず――お前を、逃がしてやる」
俺は火鳥の、瞳の奥を覗き込んだ。
「分かったな? 約束だ」
俺は。
お前の屍なんぞ、見たくねぇよ……。
火鳥はわずかに瞳を泳がせ、小さく頷いた。




