信澄の生まれた日 ~陽の巻~ 織口家本家・大広間
「元気な男の子でございます!」
産婆が告げると、広間に集まった男たちがわっと歓声を上げた。
昔から織口家に仕えている家臣たちは、喜びと安堵のあまり、涙を流していた。
皆が信勝に群がり、口々に祝いの言葉を述べる。
柴田勝家と佐久間盛信が、酒の樽を持ってきて、皆に振る舞い始めた。
しばらくすると、満面の笑みの母上が、乳母を引き連れてやってきた。乳母は、真っ白な産着に包まれた赤子を抱いている。そこにいる全員の目が、この小さな赤子に注がれた。
静かなどよめきがさざ波のように広がり、高揚を伴う安心感と未来への希望が、この場を支配する。
乳母は、注意深く赤子を信勝に手渡した。母上が後ろから心配そうな顔をして、あれこれと抱き方の指示を出す。そんな様子を見つめる家臣たちも、みなこの上なく満ち足りた穏やかな顔をしている。
先日の、勝家の清州攻めは大成功だった。
今日は当主・信勝に嫡男が生まれた。
こんなにめでたいことはない。
父上が亡くなった後の、停滞気味だった織口家の重苦しい雰囲気が、嘘のようだ。
織口家を盛り上げていこうという気概が、屋敷の隅々にまで満ちていた。
信勝の一挙手一投足に皆が注目し、当主としての尊敬を一身に集めている。
信勝自身も表情に余裕があり、自信に溢れていた。
――跡取りが生まれる、とはこういう事なのか……。
話には聞いていたが、想像以上だ。
新しく生まれたこの小さな命の影響力に、俺は舌を巻いた。
「兄上も、信澄を抱いてやってください」
穏やかな笑みで勧められ、おっかなびっくり抱き上げる。
母上が満足そうに頷いた。
「まあ、和颯は上手に抱くこと。
これならば、いつ自分の子供が産まれても大丈夫だわ」
一瞬、気まずい空気があたりを満たした。
母上が俺の耳元に口を寄せた。
「和颯もいいかげん、側室を迎えなさい。
この間、則友の娘を使いに行かせたでしょう。
家柄も悪くないし、体も丈夫そうだわ。あの娘なら――」
――あ〜。
どうやって、はぐらかそうかな……。
俺の腕の中で信澄が泣き出し、たちまち母上の関心はそちらへ移った
「おお、おお。よしよし」
零れんばかりの笑みを浮かべ、俺の腕から信澄を取り上げる。
「お腹がすいて、乳が欲しくなったのかしら。
それとも眠たくなったのかしら。
おむつも替えてあげましょうねぇ」
嬉しそうにあやしながら、部屋を出て行った。乳母が後に続く。
――ふう。
俺は中庭を眺めた。
中庭の向こうの座敷では、女たちが集まっている。
貝合わせをしたり、香炉の香りを楽しんだり、細い竹の棒を使って何かを占ったりしているようだ。
あからさまに興味がなさそうな顔をした火鳥が、部屋の隅に座って外を眺めている。
道三さまから貰った酒を飲んだ夜、火鳥とはものすごく気まずくなった。
だけどその後、義銀さまが那古野に落ちのびてきて、尾張の守護・義統さまは殺された。那古野は上を下への大騒ぎになった。
俺はものすごく忙しくなった。火鳥にも、正妻として頼まなくちゃいけない業務もそれなりにあったりして。
火鳥は、以前のように淡々と俺に接している。俺も、あの夜の事は気になりつつも、自分から蒸し返す勇気は持てずにいる。
今日は「本家に行く」と言ったら、火鳥も一緒についてきてくれた。それが正妻の務めだからだ。
いつか晴れた日に。俺が遠乗りに誘えば……。火鳥はまた、俺と一緒に、馬に乗ってくれるだろうか――。
乳母に連れられた市が、部屋に入ってきた。
市は、部屋全体を見回した後、すっと火鳥の隣に座った。
火鳥が市を見る。市が火鳥に話しかけた。手に持っているのは御伽草子だろうか。
火鳥が、穏やかな微笑みを浮かべた。二人が、市の持つ御伽草子を覗き込んだ。火鳥の指先が御伽草子の上を滑り、滑らかに口が動きはじめた。
不意に市が火鳥の袖を引き、何かを言った。火鳥は御伽草子から顔を上げ、体をかがめて市と目線の高さを合わせた。空を指さしながら、市に向かって何か説明しているようだ。
平和、そのもの。
――ああそうだ。父上に報告しないと。
さっき本家に着いた時、俺は母上と一緒に、父上の位牌に手を合わせている。
俺はその時『信勝の子が無事に生まれたら、改めて報告に来ます』と言ったんだった。
俺は立ち上がった。




