斯波 義銀
「どうぞ、こちらへ」
臙脂の着物の女に通されたのは、広い座敷だった。
「あの――っ……!
お伺いしてもよろしいか?」
義銀が、上ずった声を上げた。
「なぜ、わたしが斯波義銀だと分かった!?」
女は、義銀を見て、すっと目を細めた。
「確証などございませんでした。
まあ、いわば――。……はったり、です」
「……名乗らなかった非礼は、お詫び申し上げたい」
牛一が床に手をつき、頭を下げた。
「ですが、我々は身分を隠し、ごくごく秘密裏にこちらへ落ちのびてきたのです。
貴女さまに正体を見破られたということは、我々の計画のどこかに綻びがあったという事。
――どうか、どこに綻びがあったのか、ご教示願いたく存じます」
「……お顔を、お上げくださいませ。
――わたくしが、和颯様に叱られてしまいます」
臙脂の着物の女が膝をついた。
顔は地味だが、所作は美しい。
「ですが、本当に確証はなかったのです。
乗っていらした馬の疲れ具合から、おそらく10Kmから30Kmほどを走らせてきたと推察いたしました。荷物は少なく、着物の裾も汚れていない。
――つまり、尾張国内からいらしたお方。
義銀様の乗られていた馬は、めったに見られないほどの駿馬でした。それに、ご家来も大勢で、みな立派な刀を差しておられます。
低い家柄のお方ではないことは明らか。にもかかわらず、浴衣一枚でこちらにいらっしった。ご家来方もピリピリしている。
――のっぴきならない事情があり、こちらにいらっしゃったのですね。
ご年齢と、家柄、織口家との敵対関係、それにここからの距離を考慮すると、考えられるのは、斯波義銀様以外ありえない。――そう考えました」
牛一が唸った。
「――ですが、先ほど申し上げた通り、確証があったわけではございません。
それでも。身分の低い方と間違えられて怒る方はいらっしゃっても、身分の高い方と間違えられて怒られる方はいらっしゃいません。
なので、試しに申し上げてみたのです。
……皆様のご反応を見て、間違いではなかったと確信いたしました」
――なるほど……。
賢い女だ。それに度胸もある。
「もう一つ、お尋ねしてもよろしいか?」
火鳥が、義銀を見た。
「はい。何なりと」
「織口和颯殿の奥方、というのは――」
「挨拶が遅れました。わたくしが、織口和颯の妻、火鳥でございます」
火鳥は床に手をつき、美しい所作で頭を下げた。
「では、あちらにいらっしゃる、萌黄の着物を着た女性は――」
「萌、と申します」
鈴を振ったような声がして、萌黄の着物の娘が頭を下げた。
「萌、――さんは……」
「侍女、でございます。
火鳥様のお輿入れの際に、美濃から参りました」
火鳥と、萌の後ろにいる侍女が何か言おうとした時、大勢の人がやってくる足音が聞こえた。
「水を持って参りました。
皆様、足をお清め下さいませ」
華やかな声とともに、大勢の侍女たちが入ってきた。水が入ったたらいを、縁側の外にずらりと並べる。
「おお! これはありがたい!」
牛一が嬉しそうな声を上げた。
「遠路、お疲れでしたでしょう。ご遠慮なさらずに、どうぞ」
萌の後ろにいた年配の侍女が、たらいを持ってきた侍女に細々と指示を出しながら言った。
「ではまず、義銀さまから」
喜一が嬉しそうな顔で促す。
「うむ。そうさせてもらおうか――」
義銀は立ち上がった。
たらいに足を浸そうとして、ふと気付く。
清須の屋敷を出たのは、何年も前のような気がする。なんとか無事に織口和颯の屋敷にたどり着き、賢そうな女主人に匿われた。
命の心配はなさそうだと、安心した気のゆるみもあったのかもしれない。
――せっかく足を洗ってもらうなら、あの美人の侍女にやってもらいたい。
確かにちょっと図々しいが、自分は斯波家の嫡男だ。このくらいの要望なら許されるだろう……。
「ああ。できれば、わたしは、萌にやってもらいたいのだが――」
たちまちその場にいる女たちの空気が凍り付いた。
――しまった! 失言だったらしい。
「――………はい……。
やらせていただきます……」
萌が立ち上がろうとした。
「お、お待ちくださいませ」
火鳥がわずかに目を泳がせ、声を上げる。
「いえ、良いのです、火鳥姉さま」
――姉さま、だと!?
たった今、自分は侍女だと言ったばかりではないか!?
――どういうことだ……?
それに。
萌が火鳥の妹だったとして。
自分は斯波家の嫡男だ。織口和颯の義妹に、足くらい洗わせても問題ないだろう。
「――あ。いや、何でもない」
それでも義銀はこう言った。
「どうやら、わたしが要らぬことを言ってしまったようだ。
――済まない。忘れてくれ。
……お心遣いに感謝する。
ありがたく、足を清めさせていただこう」
義銀は、縁側に置かれたたらいに足を浸した。
先ほど、一瞬で凍り付いた空気が、ゆるゆると元に戻っていく。
―――なんなんだ、この屋敷は………!
心の中で冷汗をぬぐいながら、義銀は自分の前途を案じた。




