~斯波 義銀~ 清州・守護邸
喜一が、泣いている。
万が一にも、声が外に漏れぬよう、袖口を噛みしめて。
「義銀、お前だけでも生き延びよ」
父・義統が、微笑んだ。
その顔には、諦めが、にじみ出ている。
父は少し臆病で。あきらめが早い。
少し前に、機転の利く家臣が、清州の外から兵士たちを連れて来たことがあった。彼らは清須を囲う塀の外の町に火をつけ、塀の近くまで兵をすすめた。
あの時、こちら側も家臣を率いて呼応していれば、状況は変わっていたかもしれない。
坂井大膳は自ら兵を率いて塀の外で応戦。
義統の家臣が連れてきた兵士達は、清州の壁を突破することができなかった。
しばらく戦った末、彼らは帰って行った。
義銀は、父の反対を押し切って、強引に出陣しなかった自分を恥じた。
父は続けた。
「この先何があろうとも、忘れるな。
我らが斯波家は、将軍・足利氏の血族。
代々『義』の文字を名前に用いることを許され、家紋には『足利二つ引(※)』を掲げる、足利一門でも最高の格式を誇る名門だ。
お前の体に流れるのは、将軍家と同じ足利の血。
父は、ここに残るが――。
お前は誇り高く生きよ。
必ずや生き延びて、我らが斯波家の再興を果たしてくれ」
どんなに頼りなく、臆病で諦めが早くても。義統は、この世でただ一人の、血を分けた父だ。
「父上っ!」
義銀は、叫ぶような声を上げ、父に抱きつこうとした。
その義銀を、牛一が跪いて抱え込み、押しとどめた。
「お控えください。義銀さま。
抱きついてはなりません」
牛一は、強張った顔をして、唇を震わせている。
義統が、ヒステリックな声を上げた。
「牛一っ! 元・貧乏坊主の分際で、出しゃばるなっ!」
義統は、そのまま牛一の肩を自分の足で蹴り上げた。牛一はバランスを崩し、床に肘をついた。
「牛一!
お前にはいつもいつもイライラさせられる!!
お前は! 父と子の、最後の別れまでも邪魔をする気かっ!?
我が家臣として、拾い上げてやった恩を忘れたかっ!」
牛一は、静かに体を起こした。
「ですが――」
「口答えする気かっ!」
再び義統が牛一を蹴った。今度は牛一は倒れなかった。
牛一は、再び跪き、今度は義銀の目を見て語りかけた。
「今ここで、お父上に抱きつけば、必ず涙が出るでしょう。
泣けば、目が赤くなります。
あくまでも、義銀様はこれから、行楽のための川釣りに出かけるのです。
義銀様の目が赤ければ、屋敷を見張っている衛兵どもが不審に思います。
ですから――。抱きついてはいけません。
涙は――。斯波家を復興させ、喜びの涙を流すときまで、ご辛抱を」
何か言いかけた父親をそっと押しとどめ、義銀は牛一を見て頷いた。
唇を引き結び、キッ、と前を向く。
喜一が、袖口でごしごしと、赤くなった自分の目をこすった。
川遊びにふさわしい、ラフな浴衣姿で、義銀は自分に付き従う家臣達を見回した。
「分かった。では――参ろうか」
義銀を取り囲む家臣たちが、一斉に頭を下げた。
義統がぼそりと口を開いた。
「――気を付けて……行くがいい」
「はい。行って参ります。
必ず……。必ず――戻ります……!」
「………うむ」
「父上――」
義銀は、二度と会えなくなるであろう父の顔をじっと見つめた。
くるりと踵を返す。
目の前の壁の、高い位置に向かって宣言した。
「さようしからば、これにてごめん」
(それでは、これをもって、この場をお暇させていたします)
泣いたら、駄目だ。
義銀は背筋をぴんと伸ばした。
顎をそらし、堂々と、父の部屋を後にする。
若く逞しい、数十人の家臣たちが、黙って義銀に付き従った。
――・――・――・――・――・――
(※) 足利二つ引紋
足利氏の家紋
足利将軍家の権威の象徴




