陰の巻
「旨っ……!」
和颯が、驚いた顔で、空になった盃を見下ろした。
「お気に召しましたか?」
火鳥は盃を再び酒で満たした。
和颯が満面の笑みを浮かべ、うんうんと、機嫌よく頷いた。
「こんなに旨い酒は、初めてだ!」
火鳥はくすりと笑った。
あなたは本当に――。すぐに、人を信じるのね……。
「ですから美酒だと、申し上げたのです」
――あなたの、そういうところが好きでした。
和颯はゆっくりと、酒を口に運ぶ。
今度は純粋に、酒を楽しんでいるように見える。
あなたはいつも。
ただ、ひたすらに、まっすぐで。
なにがあっても。どんなときも、目の前のことに全力で――。
「火鳥は、左手で文字を書くのか」
急に話しかけられ、あわてて和颯の目線の先を追う。
和颯は、先ほど火鳥が片付けた筆記具を見ていた。
「……はい」
火鳥は頷く。
「俺も昔、左手で筆を持っていたことがある。
母上に、右手で書くよう矯正させられた」
――そう、でしたか。
「火鳥の母上は――小見の方、と言ったか。
――どんな方だ?」
父の養女となったのは、10年以上も前だ。
この質問には、何度も答えたことがある。
正しい答えは『母は、達筆です。父がまだ祐筆を雇う余裕もなかったころ、母が、父の手紙の代筆をしたこともあったと聞いております』、だ。
「母は、達筆です。
父がまだ――……………」
火鳥は言葉を切り、ふっと笑った。
――ばかばかしい。
5年間ずっと。
自分だけが。嘘にまみれて。
「……いえ。
わたくしは、母の顔を覚えておりません。
幼い頃、斎藤家に引き取られたのです。
ちょうど――萌が尾張に来たのと同じくらいの年頃でした」
「そうか……」
想定よりずっと低く穏やかに響く声。
「それは――寂しかっただろう」
「いいえ。
わたくしには、父の記憶も母の記憶もありません。
なので、親子の情というものを知りません。
知らないことは――。寂しいことではありません」
知らなければ、寂しくもない。
「寂しいとは。きっと。
知ってしまった優しさを――手放すときの胸の痛みなのでしょう」
――私はもう、優しさを知ってしまったから。
火鳥は、彼を見上げた。
豆だらけの硬い手のひらが肩に触れ、そのまま力強く引き寄せられた。
引き寄せられた場所は、武骨で優しく、暖かかった。
「そんなことはない。
道三殿は火鳥と血は繋がっていないかもしれないが――。
それでも火鳥を、この上なく大切に思っているはずだ」
とくとくと脈を刻む音が聞こえ、それはどうしようもなく火鳥の思考を乱す。
「俺は、聖徳寺で道三殿と会った。
だから多分――間違っていないと思う」
ここは危険だ。
今すぐ抜け出さなければ。
「それに火鳥は――。
血がつながっていなくても、道三殿をとても大切に思っているのだろう?
――だから。やっぱり。
火鳥と道三殿の間にあるのは情なのだと。俺は思う――」
どうして、そんなことを言うの?
この世に情なんてないと、ただ与えられた任務をこなしていけばいいのだと、そう言ってくれた方がずっと楽なのに。
火鳥は、目の前にある胸元に左手を滑らせた。
ここは以前、触れたことがある。
骨の位置まで覚えている。
でも。
まだ少年の骨格を残していたあの時よりずっと。日に焼けて、傷ついて、鍛えられ引き締まって、強く逞しく変化している。
――あなたはとても強いから。
だからまだ、情を捨てずに生きていけるのね。
ここは危険だ。
あたたかくて、穏やかで。
いつも注意深く堅い殻で覆っている、隠しておかなければいけない柔らかな場所が、いつのまにかむき出しになってしまう。
火鳥は目の前にある、着物の胸元を掴んだ。
彼は何も言わず、動きもしなかった。
ただ、揺るぎない強さと、抗いようもないぬくもりが、肩に添えられた手から流れ込んでくる。
火鳥はつぶやいた。
「父には――血を分けた娘がおりました……」
きっと。
――あたたかな湯とともに、鍋の中に入れられた蛤が、自らの命を手放して口を開くときも、こんな気持ちだったに違いない。
「――……彼女の名は、花鳥姫。
幼くして亡くなりました。
――私は、花鳥姫の代わりとして、斎藤家に引き取られたのです……」
「そう……だったのか……」
肩をあたためていた腕がそっと離れ、遠慮がちに背中に触れた。
どうしよう。泣きたい。
背中に回された腕に力がこもる。
目の前に彼の香りを強く感じた。くらくらしそうな安らぎに、火鳥はその身をゆだねたくなる。
「わたくしは――精いっぱい努力しました。
ですが――わたくしは……。
どれだけ励んでも、花鳥姫の代わりになることはできませんでした………」
「火鳥は、火鳥だ。
花鳥姫の代わりになど、なれるわけがないじゃないか。
――誰も、火鳥の代わりになれないのと、同じことだ」
「いいえ、和颯様はご存じないのです」
わたくしは、くのいち。
所詮は、使い捨ての道具なのです。
「わたくしの代わりならいくらでも――」
「いるわけないだろう!」
怒ったような声がして、肩を掴まれた。
火鳥の体は優しく暖かい場所から引きはがされる。
目の前に、織口和颯の顔があった。
「火鳥の代わりなど、いるはずないじゃないか――」
彼の顔が泣くように歪み、肩を掴む手が離れた。
火鳥の左手が掬いあげられ、そこに彼の唇が落とされる。
「火鳥じゃなきゃ、駄目なんだ。他の誰でも、駄目なんだ」
左手が、彼の両手に包み込まれた。
そこから全身が、溶けだしてしまいそうだ。
「ずっと――。ずっと好きだった。
火鳥が胸に抱える痛みがあるなら、俺も一緒に背負う。
火鳥が泣きたくなった時は、俺も一緒に泣く」
彼の唇が紡ぎだす音が、甘く痺れる毒に変わる。
彼の左手が、火鳥の右手に近づいていく。
「これから先も、ずっと。生きていきたいんだ。
火鳥と、一緒に。こんなふうに、手を取り合って」
――ああ……。わたしも――……。
「だから――」
――― 正気に戻れ!!! ―――
突然、頭から氷水をかけられたかと思った。
「ひっ、」
火鳥は息を吞む。
和颯の指が火鳥の右手を掠めかけていた。
体中に回っていた甘い毒が、はじけるように消える。
火鳥は右手を握りしめ、胸元に引き寄せた。
あぶ……。
――あぶない……ところだった………。
動揺し、激しく脈を打つ心臓。
握られた左手はそのままに、火鳥は精一杯体を捻らせて、目の前の男から顔を背けた。
「――火鳥…」
「ご容赦を」
精一杯の拒絶を、全身で表す。
静寂。
彼の右手に迷いが生まれ、火鳥の左手を掴む力が、弱くなった。
行き場をなくした左手が、火鳥の体の脇に、力なく垂れる。
沈黙。
カタリ、と音がした。
彼が徳利の紅梅を掴み、自分で酒を注いでいた。
彼は乱暴に盃を持ち上げ――。
とっさに、火鳥は左手で盃を押えた。
盃は、彼の口の前で止まっていた。
手を、離すこともできた。
そうすれば、彼は酒を飲み、火鳥の任務は完了する。
火鳥の瞳が、激しく揺れた。
「――少しだけ、というお約束でした」
声が、震えた。
彼の持つ盃を取り上げる。
――今、自分は何をした………?
顔を上げることすらできなかった。
酒と盃を盆にのせ、何も言わずに扉を開ける。
全身が、カタカタと震えた。
盆を、なんとか廊下に出す。
「なあ、火鳥……。
――俺が………。俺が、悪かった。
もう二度としないと誓うから――」
火鳥は振り返らなかった。
逃げるように廊下に出て、断ち切るように扉を閉める。
音を立て、火鳥のいる廊下と、和颯の残る部屋が、遮断された。
火鳥は両手を開き、自分の手のひらを見下ろした。
血と陰謀と嘘と裏切りにまみれた、醜い、くのいちの手。
もはや、何もなかったことにして、ただの女として生きていくことはできない。
なのに、くのいちとしての任務も果たせなかった。
――ちがう。
果たせなかった、のではない。
黙っていれば、果たせた任務だった。それを、あえて自ら妨害し、ぶち壊した。
――どうしよう、各務野。
火鳥は激しくむせび泣いた。
わたしは―――。
女にも、くのいちにも、なれなかった。




