陰の巻
和颯が盃を手に取った。
「――酒はあまり、強くないんだ……」
「そうですか」
――知っています。5年も共に過ごしたのですから。
「ですがこの酒は。
村木砦での、和颯様の勝利のお祝いに、父が特にと申して送り届けた酒でございます。
どうか少しだけでも、お召し上がりくださいませ」
――さあ。
どうぞ是非、お召し上がりください。
私はくのいち・火鳥。
任務は――織口和颯の暗殺。
心を、沈める。
深く深く、暗い闇の底へ。
集中。
「じゃあ、少しだけ貰おうか」
―――任務、開始。
火鳥は、完璧に作り上げた微笑みで、和颯を見上げた。
「はい。では、少しだけ……」
白梅を上にして、盃を酒で満たす。
「この度の大勝利、おめでとうございます……」
和颯はこちらをじっと見つめたまま、手だけを動かして盃を運ぶ。
動きがぎこちない。
顔の前まで来た盃が、和颯の口元でぴたりと止まった。
――まずい! 気付かれた!!
ああ。初めて会った時からずっと。
彼は本当に――勘が鋭い。
だけど。
――想定の範囲内。
火鳥は、微笑みを保ったまま首を傾げた。
「どうか、なさいましたか――?」
彼は、口元まで運んだ盃を、ゆっくりと下に下ろした。
「――火鳥の父上である道三殿が、わざわざ美濃から送ってくださった酒だ。
俺が先に飲むのは申し訳ない。
これは火鳥が先に、飲むと良い――」
――なるほど。
上手い言い訳です。
火鳥は盃を受け取った。
「お気遣いをいただき、恐れ入ります。
では、お言葉に甘えて、わたくしから頂戴いたします」
――大丈夫。この酒に、毒など入っておりません。
彼は、火鳥の動きを注視している。
火鳥は酒を飲みほした。
「――甘い、美酒でございます」
甘い、甘い、美酒。
あまくてにがい。
「和颯様も、お召し上がりください」
「いやしかし――。
あんなのは――大勝利とは言えない」
彼は低くつぶやいた。
「――火縄銃は、不発だった。
湿った火薬に火がつくはずがない。そんなことは子供にだって分かる。
でも、俺はそんな当たり前のことにすら気付かなかったんだ。
――作戦は、失敗だった。
俺は――多くの仲間を失った」
「いいえ」
――わたくしは、そうは思いません。
「新しい試みには、思いもよらない失敗がつきものです」
和颯様。あなたは。
自らの意思で強大な敵に立ち向かい、勇気をもって斬新な方法に挑まれました。
仲間を鼓舞して困難に打ち勝ち、想定外の事態の中でも最善の方法を模索されました。
多くの犠牲を払ってもなお諦めず、最後には勝利を手にされました。
ですから。これは疑いようもなく――。
見事な、大勝利でございました。
「後から失敗を笑うことは、誰にでもできます。
ですが、未知の挑戦に臨むことは、誰にでもできることではありません」
だからこそ。父は織口和颯の実力を認め、脅威を感じたのだろう。
「たしかに。今回は悔いが残る結果だったかもしれません。
ですが。失敗して、傷ついてもなお。
和颯様は、新しい挑戦に挑むことができる強さもお持ちです」
火鳥は、自分の脇に置いた徳利に目を落とした。
「これから先、和颯様はきっと、今よりずっと、ずっと強くなられます。
だからこそ――父はこの酒を送ってきたのでしょう……」
――今なら簡単に、亡き者にできるから……。
火鳥は、盃を酒で満たした。
――いっそ。
負け戦であればよかったのに。
織口和颯を見上げる。
彼の目が見開かれ、大きく揺れた。戸惑いと葛藤。迷いを断ち切る、決断。
彼は一息に、注がれた酒を飲みほした。




