陰の巻・回想
ぼんやりとこちらを見つめる萌が、眠たそうにあくびをした。
「萌。あなたはもう横になったほうが良いわ。
火鳥姉さまがお部屋まで、送って差し上げましょう」
火鳥が身を離そうとするのを、頼純の腕がやんわりと押しとどめた。
「嫌でございます。
萌は――まだちっとも眠たくありません」
頼純が目を細め、声を立てて笑った。
「困った子だね」
頼純が顔を寄せてささやき、火鳥の耳元に頼純の息がかかる。
「先ほどまで蔦がいたのだが。
用事があるとかで出て行ったのだよ。
少し時間はかかるが、後で戻ると言っていた。
戻ったら、その時、萌を部屋まで運ばせればいい」
「そうですか」
火鳥は笑顔を作った。
「では頼純様。蔦を待つ間にもう一献、お召し上がりになりますか?」
「ありがとう。では貰おうかな」
火鳥の肩を抱く頼純の腕の力が弱まり、火鳥は頼純から身体を離した。
頼純が握りこんでいた左手も、さりげなく引き抜く。
右手で徳利の白梅を持った。
しなやかに左手を添え、頼純の持つ盃に酒を注ぐ。
頼純はその酒を、一息に飲み干した。
「今夜の酒は格別だ」
「何よりでございます」
火鳥は再び、盃を酒で満たした。徳利の傾きは、先ほどより大きくなっている。
――次が、最後の一杯。
頼純は、今度はゆっくりと、注がれた酒を味わった。
萌の目はとろんとしていて、ほとんど眠ってしまいそうだ。
「萌。戻りなさい」
「いいじゃないか。そのうち蔦が来る」
「ですが――」
「火鳥はもう、わたしに酒はついでくれないのかい?」
火鳥は目を閉じた。
――仕方がない。
「いいえ」
火鳥は艶然と微笑んだ。
「おつぎいたします。お召し上がりくださいませ」
右手で、徳利の紅梅を持ち、たおやかに左手を添える。
盃に、残った酒をすべて注ぎ入れた。
「――ですが、これが最期のようです」
頼純は火鳥を見た。
「いい酒だったのに残念だ。
だけどわたしは。とても満足だよ」
頼純は、盃に口をつける。ゆっくりと名残惜しむように飲み干した。
「――ああ……。
どうやら私も少し、酔いが回ってきたようだ」
「わたくしの膝をお貸しいたします。
どうぞ、横におなり下さいませ」
「悪いね。そうさせてもらおうか」
頼純は、火鳥の膝に頭を乗せ、静かに目を閉じた。
頼純が、つぶやくように口を開く。
「火鳥――明日もまた、ふたりで月を眺めよう」
火鳥は黙って、目を細めた。
――いいえ。
頼純様が月をご覧になることは、もう二度とないでしょう。
膝の上の男の体温は、ひどくゆっくりと時間をかけ、少しづつ冷たくなっていく。
火鳥は、感覚を失った自分の中の一部が、底なし沼のような闇の奥にどこまでも深く沈みつづけ、やがて凍てつき、凍りついていくのを感じた。




