~陰の巻・回想~ 美しい月の夜 続き 火鳥・12才
「父が。美酒を送ってくれました。
頼純様と二人で飲むように、と――」
頼純が微笑んだ。
「それはありがたいね。
月を眺めながらいただこうか」
火鳥は頷く。
襖の脇に置いておいた盆を持ち上げた。
「萌――。あなたはもう、部屋に戻ったほうが良いわ」
萌はぷうっ、と頬を膨らませた。
「嫌でございます。兄上はいつもいつも、火鳥姉さまを独り占めにして。
萌だって。
火鳥姉さまと一緒に、月を眺めたいのです」
頼純が笑った。
「まだ5才だというのに。萌はとんだおませさんだ」
頼純が後ろから火鳥の腰に手を回し、縁側へと誘う。
頼純と並んで歩きながら、火鳥は耳をすまし、部屋の周りに潜む気配を、もう一度確認する。
天井裏に、一人。
床下にも、一人。
庭には、二人。
四人の忍びが、息を殺して火鳥の不手際を待ちわびている。
任務に失敗した愚かなくのいちを『消す』ために。
頼純が先に縁側に座り、火鳥の持つ盆を受け取った。
火鳥は、その右隣に腰を下ろす。盆を床に置いた頼純が手を伸ばし、縁側に腰かけようとする火鳥の肘を支えた。
頼純が萌を振り返る。
「萌がここにいたいなら、もうしばらくいればいい。
だけど、あと少ししたら、自分で部屋に戻るんだよ」
「はい!」
萌は機嫌よく頷いた。
頼純は体の後ろに手をついて、満足そうにくつろいでいる。美しい月と火鳥の横顔をゆったりと眺めた後、上体を起こして、盃を手に取った。
「――おつぎいたします」
火鳥が徳利を持ち上げた。
「おや、この徳利は初めて見る」
「はい。父が。
今夜のためにと、特別に作らせました」
「見事な出来栄えだね。
あとでじっくり眺めさせてもらおうか」
火鳥の持つ徳利が、白梅を上にして緩く傾き、酒が盃を満たした。
頼純は目を閉じて酒の香りを楽しみ、一口目を口に含んだ。
「ああ――。これは、いい酒だ」
「お口に、合いましたか」
「ああ。飲みやすくておいしいよ。
めったに口にできないほどの美酒だ。
火鳥も一口、飲んでみるかい?」
頼純が飲みかけの盃を差し出した。
「では、頂戴いたします――」
火鳥は渡された酒を、口の中に流しこむ。
不味い。
火鳥は表情を変えずに、それを飲み下した。
「とても、おいしいです」
頼純が、床に置かれた徳利に手を伸ばし、ゆっくりと絵柄を眺めはじめた。
「こちら側には紅梅が、反対側には白梅が描かれているね。
――本当に見事な徳利だ。
さすがは道三殿が、特別に作らせただけのことはある」
頼純は徳利を少し持ち上げて底の部分を見上げた。
次は上から、中を覗きこむつもりだろうか。
火鳥は切なげな顔を作り、ため息をついた。
「頼純様。火鳥は。
なんだか少し――頭がくらくらいたします」
床に、徳利を置く音がした。
「ああ、それは悪いことをした。
まだ、火鳥には早かったようだ」
頼純が膝を立て、立ち上がろうとする。
「先ほどの酒で酔ってしまったのだね。
わたしがもっと気を付けるべきだった。
今、部屋まで送るから、今夜はゆっくり休むと良い」
「いいえ――」
火鳥は瞳を潤ませ、頼純を見上げた。
「火鳥は今夜、頼純様とご一緒に――。月を眺めたいと存じます」
頼純の動きがぴたりと止まり、注意深く息を吐きだすような音が聞こえた。
「――火鳥……。
頼むから、わたし以外の男を、そんな瞳で見上げないと約束しておくれ。
――さあ、わたしの肩に、もたれかかると良い」
やわらかく躰を引き寄せられ、火鳥の頭が頼純の右肩に乗った。
万が一にも胸元の傷を見られぬよう、火鳥はさりげなく、崩れかけた襟元を直す。
風が吹いた。
萌が書き散らかしたと思われる紙が数枚、ひらひらと宙を舞って庭に落ちた。
火鳥はそれを目で追う。
「萌は――ここで文字の練習をしていたのですね」
「最初は右手で書いていたのだが、途中から左手で書いていたよ」
「それはいけません。左手では奇麗な文字は書けるようになりませんから」
火鳥の左手の上に、頼純の右手が重なった。
「火鳥は。左手で美しい文字を書くではないか」
「ですが。気が遠くなるほど練習いたしました。
萌はまだ小さいので、今から練習すれば右手で書けるようになるでしょう。
わたくしから上手く諭しておきます」
頼純は可笑しそうに笑った。
「火鳥はまるで、萌の母上のようだね」
「――申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」
「いいや、違うんだ。わたしは嬉しいんだよ。
火鳥の母上も、そんな風に火鳥の世話を焼いてくれたのかい?」
「――ええ……。
……あまりよく、憶えておりませんが……」
「確か、小見の方も、達筆だったね」
「はい。父がまだ祐筆を雇う余裕もなかったころ。
母が、父の手紙の代筆をしたこともあったと聞いております」
頼純が、火鳥の左手を掬い取った。
「わたしは。
火鳥がこのしなやかな手で、あの美しい文字を書くところを眺めるのが、とても好きなのだよ」
「頼純様のためでしたら、いくらでもお書きいたします」
「嬉しいよ。
わたしは、いつまでもただ、こうして火鳥の肩を抱き、火鳥だけを見て過ごしたい」




