表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺の妻は忍(しのび)ですか? ――でもって、もしや、次に殺される男は俺ですか?? ええ〜っ! 俺、まだまだ生存希望ですけどっ!?  作者: ひの


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

166/237

陽の巻

「旨っ……!」

 思わず俺は、空になった盃を見下ろした。

 今まで飲んだこともない、極上の酒だった。


「お気に召しましたか?」

 火鳥はすかさず、俺の盃を再び酒で満たした。


 俺は、うんうんと頷いた。

「こんなに旨い酒は、初めてだ!」

 ――なんだ! 毒なんて入ってないじゃないか!

 火鳥はくすりと笑った。


「ですから美酒だと、申し上げたのです」


 ――萌も、火鳥が酒に毒を入れるのは不可能だと言っていた。

 火鳥も、同じ酒を飲んだのだ、と。


 うん。くのいちでもあるまいし。

 火鳥が酒に毒を混ぜるなんて、あるはず、ないじゃないか。

 ――考えすぎだぞ、俺。



 今度はゆっくりと、酒の味を楽しむ。

 甘い、甘い、美酒。


 

 俺を見つめる火鳥の瞳に吸い寄せられそうになり、慌てて俺は目をそらす。

 目をそらした先、部屋の隅に、文机と筆記具が置いてあった。


 ああ、そういえば。

「火鳥は、左手で文字を書くのか」

「………はい」

 火鳥は俺の目線の先を見て頷いた。

 


 分家とはいえ、火鳥は俺の正妻だ。人前で字を書くことは意外と多い。

 俺も、火鳥が文字を書くところは何度も見ている。

 火鳥の書く文字は美しい。

 左手で書いていたとは気が付かなかった。

 よほど練習したに違いない。


 俺は以前、左手では上手く字が書けないと聞かされたことがある。

 あれは確か、俺がまだ幼い頃――


「俺も昔、左手で筆を持っていたことがある。

 母上に、右手で書くよう矯正させられた」

 母上。

 俺のために、信光叔父さんに頭を下げてくれた――。


「火鳥の母上は――小見(おみ)(かた)、と言ったか。

 ――どんな方だ?」


 斎藤道三には会ったことがあるが、小見の方には会ったことがない。

「母は、達筆です。

 父が若い頃には――……………」


 火鳥が言葉を切り、ふっと寂しそうに笑った。

「……いえ。

 わたくしは、母の顔を覚えておりません。

 幼い頃、斎藤家に引き取られたのです。

 ちょうど――萌が尾張に来たのと同じくらいの年頃でした」


「そうか……」

 知らなかった。

「それは――寂しかっただろう」

「いいえ。

 わたくしには、父の記憶も母の記憶もありません。

 なので、親子の(じょう)というものを知りません。

 知らないことは――。寂しいことではありません」


 火鳥は、続けた。

「寂しいとは。きっと。

 知ってしまった優しさを――手放すときの胸の痛みなのでしょう」

 火鳥は、今まさに刺された痛みをこらえるような目で俺を見上げた。


 俺は耐えきれなかった。

 気がついたときには火鳥の肩を抱き寄せていた。

 火鳥は(あらが)わなかった。


「そんなことはない。

 道三殿は火鳥と血は繋がっていないかもしれないが――。

 それでも火鳥を、この上なく大切に思っているはずだ」

 火鳥の髪が俺の胸元に触れ、火鳥の額の下で、俺の心臓が早鐘を打つ。


「俺は、聖徳寺で道三殿と会った。

 だから多分――間違っていないと思う」


 俺はゆっくりと注意深く息を吸った。今にも過呼吸になってしまいそうだ。


「それに火鳥は――。

 血がつながっていなくても、道三殿をとても大切に思っているのだろう?」

 腕の中のぬくもりが、少しづつ、肌を通して俺をあたためる。


「だから。やっぱり。

 火鳥と道三殿の間にあるのは(じょう)なのだと。俺は思う。


 それに火鳥は寂しくないと言うが――俺にはどうしても、火鳥が寂しく思っているように見える」

 

 火鳥が(うつむ)き、今にも折れそうな左手が、遠慮がちに俺の胸元に添えられた。

 俺は、動けなかった。

 長い沈黙。


 傷ついた小鳥がささやくような声がした。

「父には――血を分けた娘がおりました」


 火鳥は言葉を切り、苦しそうに喘いだ。

 まるで喉から、大きな石の塊を吐き出そうとしているみたいだ。


「――……彼女の名は、花鳥(かちょう)姫。

 幼くして亡くなりました。

 ――わたくしは、亡くなった花鳥姫の代わりとして、斎藤家に引き取られたのです」


「そう……だったのか……」

 いつだったか、名前について尋ねた時、火鳥はひどく儚く哀しげで、今にも零れ落ちそうなほどだった。

 あれは……。そういう事だったのか……。


 俺は火鳥の肩に添えた手を、ゆっくりと彼女の背中に回した。


 華奢な左手が、俺の着物の胸元を掴んだ。ちいさく火鳥の嗚咽が漏れ、俺の胸元が冷たく濡れた。俺は火鳥の背中に回した腕に力を込めた。


「わたくしは――精いっぱい努力しました。

 ですが――わたくしは……。

 どれだけ励んでも、花鳥姫の代わりになることはできませんでした………」


 火鳥の哀しみが俺の胸に流れ込み、俺の胸が引き裂かれる。


「火鳥は、火鳥だ。

 花鳥姫の代わりになど、なれるわけがないじゃないか。

 ――誰も、火鳥の代わりになれないのと、同じことだ」


「いいえ、和颯様はご存じないのです。

 わたくしの代わりならいくらでも――」


「いるわけないだろう!」

 ああ。どうして火鳥には分からないのだろう。


 俺は、火鳥の華奢な両肩を掴み、自分の胸元から引き離した。

 体をかがめて、火鳥の両眼を下からしっかりとのぞき込む。


「火鳥の代わりなど、いるはずないじゃないか――」


 ふとした瞬間に突然訪れる、刺すような胸の痛みも、切り刻まれるような苦しみも、悶えてしまいそうな熱い想いも。

 他の誰かに振り向けることができるなら、それ以上楽なことはないというのに。


 俺は、まだ俺の胸元を握っている火鳥の手を取り、静かに口づけをした。

「火鳥じゃなきゃ、駄目なんだ。他の誰でも、駄目なんだ」


 俺は火鳥の左手を自分の両手で包み込んだ。

 華奢な左手は、俺の手の中に溶け込むように収まった。


 今にも喉を突き破って飛び出してしまいそうな心臓を、無理やり押さえつける。

 火鳥の大きな美しい黒い瞳を、ありったけの真心を込めて見つめた。


「ずっと――。ずっと好きだった。

 火鳥が胸に抱える痛みがあるなら、俺も一緒に背負う。

 火鳥が泣きたくなった時は、俺も一緒に泣く」


 火鳥の瞳が俺をみつめたまま、少しづつ大きく見開いていく。


 俺は火鳥の瞳から目を逸らさずに、自分の左手だけを動かした。火鳥の体の脇で力なく垂れている、彼女の右手に、ゆっくりと手を伸ばす。


「これから先も、生きていたいんだ。

 火鳥と、一緒に。こんなふうに、手を取り合って。

 だから――」


「――ひっ、」



 突然火鳥が身を固くし、息を吞んだ。



 俺の手が触れる寸前に火鳥の右手が俺を拒み、固く握られたこぶしが胸元へ寄せられる。

 火鳥が、さっと躰を離した。

 火鳥の左手は、まだ俺の右手の中にある。火鳥は左手を俺の手の中に残したまま、限界まで身を捻らせ、俺から顔を背けていた。



 俺は、何が起こったのか理解できなかった。



「――火鳥」

「ご容赦を」


 低く冷たく、突き放す声。



 声も背中も左手も。

 火鳥の全身が、ありったけの拒絶を示していた。



 ……か………ちょう…………



 ゆっくりと。とても、ゆっくりと。俺の右手が、力を失っていく。

 しなやかな左手は、俺の指の隙間から零れ落ちた。


 俺は、泣くことすらできなかった。

 目の前に置かれた酒の徳利が目に入る。


 俺は徳利に描かれた、血のように赤い梅の花を掴み上げた。

 勢いよく、盃に酒を注ぐ。

 盃を持ち上げ、一気に酒をあお――。

 ぴたり、と俺の腕が止まった。

 火鳥が、精一杯顔をそむけたまま、左手で盃を押えていた。

 盃は、俺の口の前で止まっていた。



「――少しだけ、というお約束でした」

 火鳥の声は、震えていた。


 火鳥は片手で、俺の手から盃を取り上げる。

 その左手も、隠しきれないほどに震えていた。


 火鳥は、俺と目を合わせないようにして酒と盃を盆にのせ、何も言わずに部屋を出るための扉を開く。

 真っ青な顔。唇も震えていた。

 火鳥が、酒と盃の乗った盆を廊下に置いた。



 ――そんなに……。嫌だったのか………。



「なあ、火鳥……。

 ――俺が………。俺が、悪かった。

 もう二度としないと誓うから――」


 火鳥は答えなかった。黙ったまま廊下に出る。俺の方を見ようともしない。

 乱れた所作。

 音を立て、扉が閉まった。



 堪えていた糸が切れたように激しくむせび泣く声が、扉の向こう側から聞こえた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ