~陰の巻~
「あっ! 兄上~!」
屋敷の近くまで帰ってきたところで、信勝が声をあげた。
火鳥ははっとして、顔をあげた。
織口和颯がいる?
――じゃあ、萌も!?
屋敷の庭に、織口和颯が立っていた。
萌はいない。
良かった……。
だが、ここで織口和颯に出会ってしまったということは、密書の有無を確認できなかったということだ。
火鳥は落胆した。
――織口和颯。まるで私たちが来るのを待ち構えていたかのよう。
既にこの男には疑われている。こちらも警戒しなければ……。
織口和颯が口を開いた。
「――お前たち――どうしたんだ?」
おや? 機嫌が悪そうだ。
何かあったのだろうか。
そういえば、萌はどこへ行ったのだろう。
織口和颯は萌をかわいがっているように思ったのだけど。
ケンカでも、したのかもしれない。
せっかく最近、萌の表情が明るくなってきたと思ったのに……。
信勝が答えた。
「火鳥義姉さまの草履の、鼻緒が切れてしまって」
いけない。任務に集中しなければ。
「信勝さまには、すっかりご迷惑をかけてしまいました」
「いえ、迷惑だなんて。とんでもございません」
「重かったでしょう。どうやってお詫びをしたらいいかしら」
火鳥は、信勝を見つめた。
――お願い。何か、頼んで。
贈り物でも、労働でもいい。
信勝に頼まれたと言えば、誰にも疑われることなく、堂々と本家へ行く事ができる。
本家は情報の宝の山だ。
信勝の父母の人柄、人間関係、家臣の力関係、経済状況――。
ここにいては集められない情報ばかりだ。
どんな情報でもいいから集めたい。
「お詫びなんて、いりません。ただ火鳥義姉さまのおみ足が心配です」
「そんな……なにかお役に立てることはないでしょうか」
何かあるでしょう?
母上の話し相手とか。妹の遊び相手とか……。
堂々と本家に行けるなら何でも良い。
この際、トイレ掃除だって構わない。
火鳥は期待を込めて信勝の目を見つめた。
信勝は何かを思いついたように口を開き――。
「――早く、おろせよ」
低い声がした。織口和颯だ。
「はい」
信勝が火鳥から目を離した。
ああっ!
もう!
あと少しで何か言いそうだったのにっ!
織口和颯!
――この男は、油断ができない。
信勝が屋敷の縁側に、火鳥を下ろした。
――今だ!!――
火鳥は、左手を信勝の肩に残した。信勝の体が離れるのに合わせ、するすると信勝の腕に触れる。
弓の名手なら、この辺りに筋肉がついているはず。
――やはり――
それなりに筋肉はある。だが、特別に引き締まっているというわけではなさそうだ。
最後にもう一度、信勝の右手の平に触れて確認する。
――間違いない。それなりに練習している。だが、想像を絶するほどに鍛えているわけではない――
これだけの情報が集められれば満足だ。
火鳥はするりと左手を抜いた。
「何しに来たんだよ」
「干し柿を届けに来たのです」信勝が言った。
「はあっ!?」
織口和颯は、イライラと言い返したものの、一秒遅れで嬉しさが顔ににじみ出た。
――あ。本当に好きなんだ。干し柿。
甘いもの好きなんて、ちょっと意外。
預かった包みの中身はまだ確認できていない。でも、今、織口和颯に手渡さないと不自然だ。
火鳥は仕方なく、懐から包みを取り出し、手渡した。
「父上が、兄上に届けてこい、と言って」
「歩いてきたわけじゃないだろう?」
「はい。馬で来たのですが。水を飲ませている途中で突然走り出してしまって。そうしたら、偶然、火鳥義姉さまと出会ったのです」
一呼吸おいて、織口和颯の眉がぴくりと動いた。
――あ。
『そのシチュエーションは不自然だ』と思っている。
この男は本当に厄介ね。
なんとかして、気をそらさないと。
まずは名前を呼ぶ。
「和颯様!」
名前を呼ばれれば、誰でも思考を乱す。
織口和颯には、何か別のことを考えさせなければ。
えっと、話題は――。
「火鳥は、信勝様の馬が走っていくところを見ました。奇麗な栗毛の馬でした」
ほう、という顔で織口和颯がこちらを見た。
やはり、織口和颯は馬が好きなようだ。
「信勝様の愛馬ですか?」
織口和颯は答えなかった。かわりに信勝が答えた。
「はい。私が持っている馬の中で、一番良い馬です」
「名前をお伺いしても?」
「栗丸です」
実は少し前から馬の足音が、こちらに近づいてくることに気づいていた。――栗丸の足音は、重い。
「まあ。ご覧くださいませ。栗丸が帰ってきたようです」
栗丸を連れた従者と各務野が、村の外のあぜ道を、こちらに向かって歩いている。
目で見るまでもない。馬はやや疲れている。
各務野は栗丸を全力疾走させていた。だから仕方がないと言えば仕方がない。
だが、織口和颯が毎日、朝晩数時間ずつかけて鍛え上げている馬――おそらく名前は、黒龍と赤兎――なら、このくらいでは息ひとつ切らさないはずだ。
これが信勝の一番いい馬だというのなら――まあ、それなり、といったところか。




