~陰の巻~
「ああ~~~っ!
信勝が那古野を守る兵士を貸してくれると思ったんだけどなぁ!」
廊下に響く大声。
騒がしい男が帰ってきた。
ぴんと張りつめていた屋敷が、ほっと安心して息を吐く。
一益と和颯の足音が、こちらへ向かってくる。
火鳥は、書きかけの手紙にざっと目を通した。
この内容なら――万が一見られるようなことがあっても、適当に言い逃れができるだろう。
彼らはまだ廊下で騒いでいる。
多少なりとも墨が乾くよう、そのまま待つことにする。
墨を擦りなおす。いっそう黒さを増した墨を、筆にたっぷりと含ませた。
筆を手に、書きかけの手紙を、今度はじっくりと読み直す。都合の悪い内容があれば、塗りつぶしてしまおう。
ゆっくりと3度、読み直したが、致命的な箇所は見つからなかった。
火鳥は筆をおいた。
乾きかけた墨が他の場所につかないよう、手紙を緩く畳んで机の上に置いた。
「火鳥様。入ってもよろしいでしょうか」
一益が、和颯の正妻としての火鳥に話しかける。
「どうぞ、お入りください」
立ち上がり、扉の脇に正座する。
火鳥は静かに、扉を開けた。
二人の男が部屋に入る。
部屋を見回していた和颯の目線が、机の上で戸惑うように止まった。
――気付いたのだろうか?
「ご用件は?」
――気付かれても、問題はない。
そもそも、土岐家では、屋敷中の皆が知っていたのだし。
「あ~……。
えっと……。その……」
和颯の注意がこちらを向いて、口ごもった。
――むしろ今まで、よく気付かれなかったものだ。
一益が簡潔に答えた。
「我々は、村木砦を攻めたいと思います。
我々の留守中、清州軍が那古野に攻めてくるのを防ぐため、斎藤道三殿に、援軍をお願いしたいのですが」
――今は、目の前のことに集中しなければ。
「そうですか」
火鳥は頷いた。
美濃は内陸にある。
多くの国と国境を接している。
越前・近江・伊勢・尾張・三河・信濃・飛騨。
父は常に、隣国との関係に神経をとがらせていた。
織口信秀が亡くなり、美濃にとって、尾張は脅威ではなくなった。
三河は弱小で、尾張と駿河の対応で手いっぱい。美濃に攻める余裕などなかった。
警戒すべき隣国は、越前と近江。
だがここにきて、駿河の勢いが止まらない。あっという間に三河まで勢力を伸ばし、現在、尾張を侵食中だ。
清須は既に今川の傘下。織口家が倒れたら、尾張はなし崩しに今川家に下るに違いない。
そうなると、次は美濃が標的になる可能性がある。
駿河は強大で狡猾だ。
いくら美濃といえど、苦戦を強いられるはず。
尾張の崩壊は免れないとしても、その時期は少しでも遅らせたい、というのが父の本音だろう。
清州軍が那古野を落とせば、織口家は、いっそう窮地に立たされる。
――美濃にとっても、それは、望ましくない。
※美濃周辺図と、尾張攻略後の今川義元の進路予想(可能性)
(補足 地図)
※ この時期の甲斐と駿河の国境は、ずっと甲斐よりとのこと。駿河はもっと大きいとお考えください。




