〜柴田 勝家〜
「ダメだ、兄さん。
援軍は出せない」
信勝様の、冷静な声が、座敷に落ちる。
信勝様のおっしゃることは、いつも正しい。
冷静沈着。理路整然。
今、織口家が置かれた状況を正確に把握し、冷静な判断を下すと、その結論がベストなのは理解できる。
それは正しい。確かに正しいのだ――。
「だけど! それじゃあ――!
緒川砦は見殺しにするのか!?
水野忠正はどうなる!?
俺たちに、助けを求めてきているんだぞ!」
和颯様が、目を白黒させながら食い下がった。
柴田勝家は、自分の目の前で、唾を飛ばす勢いで、必死に反論する男――織口和颯――を眺めた。
彼が展開しているのは、支離滅裂な感情論。
理論も理屈も5才児レベルだ。
だけど――自分自身の中に閉じ込めた、熱く脈打つような心が動き出しそうになるのは、何故だろう。
信勝様は優秀だ。
巨大帝国である駿河・今川家の脅威にさらされながらも、何とか織口家を維持している。
神経をすり減らすような持久戦。
信勝様は、常に冷静な判断を下し、逆境にも良く耐えていらっしゃる。
それでも、少しづつ、じわじわと追い詰められていく感覚が、織口家全体を支配していた。
「兄さん、頭を冷やして、よく考えて。
オレは、兄さんの出陣には反対だ。
本家からは、兵士も武将も、絶対に出さないよ。
だから、援軍を出すのは諦めて。いいね?
……この話は終わりだ」
信勝様が立ち上がった。
和颯殿は大切なお菓子を取り上げられた5歳児のような顔をして、信勝様を見上げている。
※※
そういえば、5歳の頃の和颯殿も、よくこんな顔をしていたっけ……。
和颯様の思いついた「とびっきりの考え」を否定され、無理やり大人の言うとおりにさせられた時。大切にしていた「とんでもないペット」と、無理やり引き離された時。
――あの時も今も、和颯殿のこころは、ほとんど変わっていないのかもしれない。
※
和颯殿なら、生まれる前から知っている。
あの頃勝家は12歳で、既に信秀様に仕えていた。
和颯殿の母・土田御前は、初めての出産だった。
腕が良いベテランの産婆が、何日も前から泊まり込んでいた。
出産で死ぬ女は多いが、その中でも初産の死亡率は、最も高い。
僧侶と祈祷師が何十人も呼ばれ、男児の誕生と、土田御前の無事を祈った。
出産には丸一日かかった。
和颯殿が生まれた時、信秀殿は緊張のあまり汗だくで、まるで自分が出産したかのように息も絶え絶えだった。
産まれたのが男児で、土田御前も無事だと知らされ、涙を流して喜んでいた。
※
少なくとも5歳頃までは、和颯殿は、信秀様の跡取りとして育てられていた。勝家も、そう認識していた。
だが、常に冷静で物事を俯瞰してみることができる信勝様と違い、和颯殿は情にほだされるとすぐに視野が狭くなり、何かと非常識な行動も多かった。
次第に家臣たちの間でも「跡取りには信勝様を」という声が大きくなり、信勝様の元服の頃には誰もが「信勝様が跡取り」だと認識していた――。
※※
ああ、信勝様の後を追わければ。
勝家がそう思った時には、信勝様は部屋を出て、扉を閉めていた。
「あれ? 勝家。
信勝と一緒に行かなくて良かっ――」
気が付いた和颯殿が声を発したが、和颯殿の傍に控える男がそれを遮った。
「勝家殿は、信秀殿の側近だったと伺っております。
もしや、緒川砦の水野信元殿ともお知合いですか?」
ぎょっとした。
主人の言葉を遮るとか――命知らずか。
この男は知っている。
滝川一益、と言った。
風のうわさで、忍だと聞いた。
勝家は、そのうわさを信じていない。
和颯殿は、仮にも信秀様のご長男だ。
忍あがりのような卑しい男を、まるで側近のように扱うはずがない。
ちらりと和颯殿を見る。
一益が、自分の言葉を遮ったことを、気にしている様子すらない。
むしろ、一益の質問に対する、勝家の返答を待っているように見えた。
戸惑いながらも、勝家は答えた。
「……あ……。ああ。水野信元殿は知っている。
小豆坂の合戦でも、共に戦った」
年が近く、気が合った。
共に酒を酌み交わした仲だ。
常に自分の中にぶれない軸を持っていて、正義のために命を懸けられる男だ。
それに、部下想いで温厚だった。
話し始めると、懐かしさがこみあげてきた。
信勝様のおっしゃることは正論だ。
正しい。間違いなく正しい。
正しいけど。
――なんで、あんなにいい奴が見殺しにされなくちゃいけないんだ。




