〜陰の巻〜
その店に、先客はいなかった。
初めて入る店だ。
壁いっぱいに、逆さまになった薬草の束が、いくつもぶら下がっていた。
何年も売れていないのだろう。どれも色が褪せている。古そうだ。
火鳥は棚の上で埃をかぶっている、古い生薬を手に取った。まがい物ではないが、粗悪品だ。
店頭に並ぶ品物は古いのに、どこかから新鮮で上質な生薬の香りがする。
火鳥は、油断なく、店内に目を走らせた。
全体的に地味な店構えだが、奥は隅々まで掃除が行き届いている。
店構えはしっかりしている。店主と思われる男は、身なりも血色も上々。
それに店の屋根は、最近新しく張り替えたばかりのようだ。
――それなりに儲かっている。
店員は一人。動きは自然で無駄がない。さりげなくこちらを観察しているが、警戒はしていない。
火鳥は一見の客だが、怯えている様子もない。
つまり、誰からも命を狙われる心当たりはない、ということだ。
つまり、腕がよく、〈真っ当〉な商売をしている証。
――どうやらこの店は「当たり」のようだ。
火鳥は、わざと足音を消して店主に近寄った。
店主がこちらを見ずに口を開いた。
「――何か、お探しですかな?」
「知り合いが……。
《《いつか》》眠れなくなりそうなので、よく眠れる薬を探しているの」
「なるほど」
店主が頷いた。
「再び目覚める薬と、2度と目覚めない薬がございますが……」
火鳥の眉がピクリと動いた。
腕の良い薬屋は、人を殺す薬など売らない。露見すれば死罪だ。リスクが高すぎる。
ほかにもっと、安全で、高く売れる薬がある。
火鳥は、慎重に答えた。
「目覚めない方の薬は、間に合ってる」
――それくらい、自分で調達する。
※※
大きな街の裏路地に行けば、毒薬を売る店も、あるにはある。
だがそれは、法外な値段をふっかけて、いかにも怪しげな薬を売る、胡乱な店だ。
まともな薬のはずがない。
そんな店では、たいてい、堕胎薬も売っている。
望まない妊娠をした女が、一縷の望みをかけ、なけなしの金を握りしめてやってくる。
だが、この世に、堕胎薬など存在しない。既に女の腹に宿った『胎児だけ』を殺す薬など、あるはずもない。あるのはただ、母子を共に害する毒薬か、効果の無い偽薬だけ。
※※
「それは、良うございました」
薬屋の主人が、感情のこもらない声で答えた。
「もしも『目覚めない薬』を御所望だと伺いましたら、店の出口までご案内するところでした」
なるほど。カマをかけられていたらしい。
だが、腹は立たなかった。
大っぴらには売れない薬を売るならば、店が客を選ぶのは当然。
「探しているのは、とてもよく眠れて、何事もなく、目覚める薬よ。
そんな薬は、なかなかないというのは承知しているけれど――この店に、そんな薬はあるかしら」
店主は、体を少し動かした。
さっと火鳥の全身を見回して、再び別の方を向く。
「――かなり、値が張りますが」
承知の上だ。
「構わないわ」
店主は、値踏みするように火鳥を上から下までじっくりと眺めた。
「……では、奥の部屋へ………」
目つきの悪い男が店に入ってきた。
店員が、男に声をかける。常連客らしい。
火鳥は、店主の後について奥の部屋へ入った。
通された座敷には、大きくて立派な掛け軸が掛かっていた。
一度退出した店主が、すぐに粉薬を盛った鉢を持って、戻ってきた。
「お待たせ致しました」
落ち着いた立ちふるまい。
先ほどとは違い、顔に表情がある。
――どうやら、客として認められたらしい。
店主は愛想よく言った。
「当店の、自慢の品でございます。
寝る前に使えば、眠りが深くなります。余程のことでもない限り、2時間は目覚めません。
ですが、次の日の朝には何事もなく目覚めます。
――本人は薬を飲んだことにも気付きません」
これが事実なら、相当に微妙な匙加減の末、慎重に調合された薬という事になる。
「……確かめたの?」
「先日まとめて調合した際に、私自身が服用し、確認しております」
火鳥は店主を見た。
自信と経験に裏付けされた、余裕の笑顔。
「――気に入ったわ。貰っていく」
聞きなれた足音が聞こえ、火鳥は顔を上げた。
「今、この店の奥に、女の客が入っていくのを見たのだが」
貞じいの声だ。
「さようですか。私は気づきませんでした」
しれっと答えているのは、店員だろう。
「今すぐあの女を、ここに連れ出していただきたい!」
貞じいが語気を荒げた。
「申し訳ございませんが、当店では、そのような事はできかねます。お帰り下さいませ」
温和に、しかし頑として譲らない店員。
――なるほど、良い店だ。
「俺の妻だ!」
和颯が食って掛かる声がする。
あ。
――これは……まずい。
「見間違いかもしれません」
「見間違えるはずがないだろう!」
火鳥は顔をしかめた。
「ごめんなさい。面倒を持ち込んでしまったようです」
店主の告げた、3倍の価値の金粒を床に置いた。
「いえいえ、お気になさらずに」
店主は表情一つ変えず、床に置かれた金を懐にしまった。
「よくあることですから」
慣れた手つきで、壁にかかった掛け軸を持ち上げた。
掛け軸の後ろの壁には、ちょうど人が一人通れるくらいの穴が開いていた。
「隣の空き家に続いております。
あちらのお客様は、しばらくこちらでお引き受けいたしますので、その間に裏口からご退店くださいませ」
「さすがね」
「恐れ入ります」
店主は軽く頭を下げた。
火鳥は耳をすませる。
――いや、駄目だ。
いくつもの声と、足音が近づいてきている。
和颯の大声を聞いて、彼の仲間たちがわらわらと集まって来ていた。
1人や2人ではない。
隣の空き家の前で足を止める者もいるだろう。
彼ら全員の目を盗んで、ここから秘密裏に、逃げ出せるとは思えなかった。
……どうする……?
床を見つめ、黙り込む火鳥。店主は慌てることもなく座っている。
慣れている。本当に「よくある事」なのだろう。
ならば――。
火鳥は顔を上げ、口を開いた。
「お願いが、あるのですが……」




