~陰の巻~
聖徳寺の離れは、静かだった。
火鳥は庭に植えられた木々の木漏れ日を、ぼんやりと眺めた。
本堂では父と和颯が面会しているに違いない。
床下か、天井裏から侵入して、面会の様子を探りに行こうかとも思ったが、やめた。
面会会場には父がいる。
火鳥の仕事は、父の目となり耳となり、手足となることだ。
指令もないのに、主人の目と耳がある場所に、わざわざ忍んでいく必要はない。
廊下から音が聞こえた。
火鳥ははっとする。
これは、父の足音――。
5年ぶりに聞くその音は、父がまだ現役で、足腰がしっかりしていることを示していた。
それでも同時に、父が5年分、年を取ったことも物語っていた。
火鳥は髪と着物を整え、座り直す。入口に向かって平伏し、父を待った。
耳をすます。
足音が近づく。
「入る」
懐かしい父の声。扉が開く音。
「父上……。お久しゅうございます」
火鳥はいっそう深く頭を下げた。
座敷の敷居をまたぐ衣擦れ。扉を閉める音。
父の声。
「5年ぶり、だ」
任務の失態を叱責されるかと思ったが、降ってくる声は穏やかで、懐かしさを含み、どこか寂しげだった。
火鳥は顔を上げた。
5年分、年を取った父がそこにいた。
「尾張での任務、ご苦労であったな」
「ありがたいお言葉でございます」
火鳥は小さく頭を下げた。
父が何のために、火鳥を尾張に嫁がせたのか、正確なところは知らない。
だが、おそらく、当初の目的は、父と拮抗しうる力を持った、織口信秀と、その嫡男の暗殺だったはずだ。
だから、いつでも実行できるよう、準備はしていた。
結局、父からの、暗殺の指示は出なかった。
父は美濃で、土岐家との壮絶な駆け引きを行っていたと聞く。
仮に火鳥が、信秀と嫡男を暗殺したとして、尾張に攻め込む余裕がなかったのだろう。
「苦労しただろう」
「いえ、そんなことは……」
確かに苦労はした。
だが、結果を見れば、何も成し遂げていない。
「火鳥……。
美濃に――帰りたい、か?」
「え?」
『美濃に帰れ』そう命令されると思っていた。主人が、くのいちの希望を聞く理由が分からない。
――いや、質問された理由など考える必要ない。
今、聞かれているのは『火鳥が美濃に帰りたいかどうか』だ。
自分は美濃へ帰りたいのだろうか。
美濃の稲葉山は、自分の『帰るべき場所』だ。
もちろん帰りたい……に違いない。
もし、美濃に帰らなかったら、尾張に残ることになる。
――尾張には……和颯がいる。
彼は火鳥がくのいちである可能性など、微塵も疑っていない。
尾張にとどまることを選んだら、いつかまた、ふたりで遠乗りに行けるだろうか――。
道三が目をそらした。
「……いや、今はまだ、帰らなくていい。
尾張で――……まだ――やり残したことがあるのだろう」
「………はい……」
火鳥は小さく答えた。
「これをお前に、渡しておく」
道三が取り出したのは、一本の美しい懐剣だった。
火鳥は両手でそれを受け取った。
白い柄と白い鞘。虹色に輝く螺鈿細工と細かな金細工で、小鳥の羽毛の意匠がちりばめられている。
「……わあっ…………。
……きれい……」
思わず声が漏れた。
「甲賀の里からお前を引き取るとき、渡された懐剣だ。
もっとも、渡されたのは刀身だけだったが――」
火鳥は、鞘を抜いた。
刀身はどっしりとしていて、深い色に光っている。腕のいい鍛冶屋が、上等の鋼を使い、丁寧に打ったものだということが分かる。
「めったに拝見できないほどの、見事な、懐剣です。
さぞかし、切れ味も良いのでしょう」
火鳥は刀の角度を変え、刀身を眺めた。
どの角度から見ても、匠の仕事ぶりを証明するような見事な懐剣だった。
「その懐剣はもともとお前の物だったのだそうだ。
おそらく大切なものだったのだろうと聞いた。
だから、これからはお前が持っていると良い」
火鳥は尋ねた。
「その時、わたくしは、この懐剣の刀身だけを持って甲賀の里へ流れ着いたという事でしょうか?」
おそらく甲賀は、自分の生まれ故郷ではないはずだ。
「いや。柄と鞘は『もう無い』と言っていた」
眉をひそめる。
柄と鞘だけがいつの間にか消えた、という事だろうか。
それとも、柄と鞘だけを売り払った、という事だろうか。
柄と鞘だけを売り払ったと考える方が自然だが、刀身を売らなかった理由が分からない。そもそも、柄と鞘だけを買い取る者などいるのだろうか。
道三は続けた。
「儂にも良く分からない。
ただ、あの日一緒に小屋にいた、黒トカゲの一番弟子。
あの忍なら、何か知っていそうだった」
――カワセミ。
いつか聞いてみようか。
だが、何か知っているなら、あちらから教えてくれてもよさそうなものだ。
今まで何も言ってこなかったということは、言いたくないという事だろう。
こちらから聞いても、適当にはぐらかされそうな気もする。
「お前が必要だと思えばいつでも、その懐剣を、織口和颯の胸に突き刺すがいい」
突然、任務の話になった。
火鳥は気を引き締め、父の言葉に集中する。
「いえ――」
弱者が放つ物理攻撃は、一撃で確実に息の根を止められるものでなければならない。返り討ちに遭うからだ。
「刺殺だと、殺り損ねる可能性が――。
織口和颯を殺すなら……毒殺」
道三は、目を丸くして火鳥を見つめ、一瞬の後に爆笑した。
「――何か、おかしなことを申しましたでしょうか?」
間違ったことは言っていないはずだ。
以前、和颯の急所の場所は指で触れ、骨の位置まで確認している。
それでも、一撃で、となると、確実に仕留められない可能性がある。
万が一、一度目の攻撃を躱されたら、おそらく火鳥に、二度目のチャンスはない。
その場合、殺されるのは、おそらく火鳥――。
殺されるのは構わないが、任務が遂行できなくなるのは困る。
「――いや……」
道三は涙をぬぐいながら言った。
「――さすがは、儂の娘だ、と」
その言葉を耳にした途端、火鳥の胸に言いようもない哀しみが広がる。
自分が、亡くなった花鳥姫の代用品だということは分かっている。
どれだけ励んでも、どれだけ心を込めて尽くしても、所詮自分は劣化コピーにしかなれないということも……。
道三は真顔に戻って火鳥の目を見た。
「この先何があっても、決して忘れるな。
花鳥は儂の、自慢の娘だ――」
火鳥は、歪みそうになる顔を見られないよう、深く頭を下げた。
ですが、父上。
父上が誇りに思われた父上の娘・花鳥姫は、もう、この世におりません。
今、父上の目の前にいるのは、くのいち・火鳥です。
それでも火鳥は、父上のためにいつでも、この命を投げ出す覚悟でございます――。




