〜陰の巻〜
船の縁に腰掛け、白い飛沫の舞う水面を眺めていた。
風に深いみどりの香りを感じる。
美濃に帰ってきた、と思った。
5年前、ここを超えた時は、各務野が一緒だった。
あの時は、織口家の嫡男に嫁ぐつもりだった。
それがまさか、分家に嫁ぐ事になるとは。
各務野が死んだ時、次に国境を越える時は、ひとりきりで木曽川を渡ることを覚悟した。
人生とは分からないものだ。
まさか、織口和颯と一緒に木曽川を超える日が来るとは。
一緒に、と言っても別の船。
隣の船に乗る和颯の周りには、彼の親衛隊が取り囲んでいる。
寝食を共にし、全員一丸となって厳しい訓練をこなす彼らの結束は、極めて固い。
年齢は10代から30代後半くらいまで。
軍規は厳しく、喧嘩は厳禁。
朝から晩まで訓練をしていて、それ以外のわずかな時間はほぼ、家族か、好きな女の話をしている。
彼らの中の誰か1人に想いを寄せる女がいれば、全員で応援するし、失恋したら全員で泣く。
「大丈夫ですよ、和颯様」
「――俺たちが、ついてます」
声が、聞こえた。
「和颯様の愛する火鳥様は、俺達が決して道三に引き渡したりはしません」
――えっ?
小さな声だったが、火鳥の耳は確実にその音を捉えた。
火鳥の心拍数が、跳ね上がる。
火鳥は、振り返りたくなる自分をおさえ、素知らぬ振りで船の前方を見つめ続けた。
耳に神経を集中させる。
「――んなっ……っ!?」
和颯の押し殺した声が聞こえる。
「だ―――っ!
違っ……ッ!
違うから!
そういうんじゃないんだよッ!!」
火鳥は、波を凝視する。
……そう、ですよね。
和颯が必死で否定する声が聞こえる。
「好きとか、嫌いとか。
そういうんじゃないんだって!
これは――これは、えっと……政治!
そう、政治なんだって!!」
一瞬だけ浮き立った気持ちが、たちまち沈んでいく。
……分かってた。
分かってる。分かってるのに。
――ああ。馬鹿みたいだ。
「今、尾張は今川に攻められている。
美濃は、大切な同盟相手だ。
俺はその同盟を維持する必要がある。
だから、この婚姻は破棄するわけにはいかないの!
それだけ!
本当に!!
それだけなのッ!!」
――…………。
和颯は、火鳥を道三の愛娘だと思っている。
火鳥さえいれば、美濃との同盟が維持できると目論んでいる。
――違うのに……。
火鳥は、ただのくのいち。道三にとっては、使い捨ての駒だ。
――私を大切にしても、美濃との同盟には役立ちません……。
火鳥の胸が、じわりと痛む。
今日も、わざわざ火鳥のために籠を用意して、何度も男たちを交代させながらここまで運ばせている。
わたしは、狭い籠になんか乗りたくないのに。
この婚姻は、政略結婚なだけでなく、偽装結婚だ。和颯が火鳥に愛情など感じないのは当然。
それならばいっそ、今すぐ自分を、冷たく美濃に追い返してくれれば良いものを。
苦しい。
胸がとても、苦しい。
火鳥は、船の縁に座ったまま、揺れ動く水面を見つめ続けていた。




