~陰の巻~ 密書
父上
今日は和颯様と遠乗りに出かけました。
早駆けの勝負を挑まれ、受けて立ちました。
ぎりぎりの勝負でしたが、もちろんわたくしが勝ちました。
その後、歩いて、大きな丘に登りました。
ふらふらになるまで馬に乗った後、徒歩で丘に登るなんて、正気の沙汰とは思えません。倒れるかと思いました。
それでも、丘の頂上から見た景色を、わたくしはきっと、死ぬまで忘れないでしょう。
そこで見たのは。
うみ。
父上は、海をご覧になったことはありますか?
わたくしは、こんなにもひろく大きく、雄大で清純で、美しいものを見たのは生まれて初めてです。
尾張に嫁いで三年。熱田でもちらりと海は見ましたが、その時は、泡立つ水をたたえた大きな池のような場所だと思っただけでした。
今日初めて、和颯様に手を引かれて連れられて、丘の上から、眼下に広がる、光り輝く海を見ました。
どこまでも、どこまでも、どこまでも、ただきらめきながらそこに広がる景色に、時のたつのも忘れて見入ってしまいました。
土岐家で読んだ書物に『この世界は、三頭の象が支える皿のようなもの上に存在している』と書いてありました。皿の端は世界の端で、そこから滝のように海の水が落ちているのだとか。
こんなに遠くまで見渡せるのですから、海の向こうに世界の端が見えるのではないかと目を凝らししてみましたが、どんなに目を凝らしても、世界の端を見ることはできませんでした。
和颯様が仰るには、このまままっすぐ船で何日進んでも、ひたすら海と小さな島があるばかりで、未だに海の果てまでたどり着いた者はいないのだとか。
本当でしょうか。
誰も確認した者がいないのになぜ、わたくしの読んだ本にはそのように書いてあったのでしょう。
「いつか自分の目で見て確認してみたいものです」と申し上げましたら、和颯様は黙ってしまわれました。
横を見ると、至近距離の和颯様と目が合い、飛び上がるほどびっくりしました。
彼の行動は常に予測不能です。
目の前にあれほど美しい景色があるのに、それを眺めないなんて、わたくしの理解の範疇を超えています。
それから、ふたりで水を飲みました。
それから、ふたりで餅を食べました。
それから、ふたりで干し柿を食べました。
それから――。
いえ。
何をどう書いていいのか分かりません。
その後、丘の上に気持ちの良い風の吹く場所を見つけ、空に浮かぶ雲が形を変えていく様子を眺めました。
ふたりで、並んで腰を下ろし、夕方になるまでずっと、ただ空を眺めていました。
目をとじると、茜色の空がまだ、瞼の裏に張り付いているようです。
今日は、晴れた日に吹く、梅の花の香りがする風のような一日でした。ですから今夜はもう、眠ることといたします。
おやすみなさいませ。 火鳥




