8 きれいな魔法だ
ドロシーという名のひとりの女性によって世界に魔法の概念がもたらされたのは、今からおよそ二百年前のことだった。
原理と呼べる原理のない、人間の認識を超えた不思議な力。
非科学的なものを信じない人々はその存在を否定したが、ドロシーの力は本物だった。
彼女は自身を原初の魔女と称し、イギリスに本部を置くオズ魔法協会を創立した。魔法の普及を目的とした組織だった。
魔法は万能だ、とドロシーは言った。
魔法でできないことはない。この世にあるありとあらゆる想像を現実に変えるのが魔法だと。
そしてこうも言った。魔法を用いてできないことがあるとすれば、それは単に使い手が未熟なだけだと。
魔法使いにも力のある者とそうでない者がいる。
とりわけ日本は先進国の中でも魔法のレベルが低いと言われており、魔力保有者の数も他の国に比べて少ないという統計が取られていた。
だが、そんな日本にも世界に名の知れた優秀な魔法使いは存在する。
箭田、阿夜、櫛名。御三家と呼ばれる家系の血筋を持つ人々だ。
各家の初代当主は全員女性。
日本三大魔女と謳われた彼女たちは、ドロシーにも匹敵する魔法の力の持ち主として、この国における魔法使いたちの地位を築いたという。
「阿夜の魔法を見んのも久しぶりだな」
「そうなの?」
「中等部のときはちがうクラスだったし、合同授業があっても大体は休んでたからよ」
「そっか……」
彼女はいつ頃から学校を休みがちになったのだろう。
仮資格を持つことがその忙しさの要因であるというなら、それ以前はいまよりふつうの学園生活を送っていたのではないのか。
指定された位置につき、教師と向き合う黒髪の少女。
凛とした後ろ姿だった。他の生徒たちが恐れる岩田の魔法を受ける間際となっても、怯える様子ひとつ見せない。
「あれは……」
廻ははっと目を見開いた。撫子が自身のローブの内側から何かを取り出したからだ。
それは長さ三十センチほどの樺色の杖だった。遠目でもわかる上等な代物だ。
「いくぞ! 構えろ」
岩田の周囲に数多の岩石が生成される。勢いよく手を振り下ろす岩田。
その動きを合図に発射された大きな岩の砲弾が、撫子めがけて風を切りながら飛んできたときだった。
「──花園作成」
杖先を前方にかざした阿夜が、静かな声で呪文を唱えた。
すると少女の足元に魔法陣が浮かび上がった。光り輝く何枚もの花びらが折り重なっているかのような紋様だった。
風でぶわりと舞い上がる濃紺のローブと、黒い長髪。
増幅する少女の魔力が瞬く間に広いグラウンドを支配していくのを感じ、廻はごくりと息をのむ。
次の瞬間、阿夜の足元の地面がぼこりと大きく膨れ上がった。
グラウンドの下から生えるように飛び出してきたのは、細く長い大量の植物の蔓だった。
絡み合うようにして生長する幾千もの緑色の蔓。目にもとまらぬスピードで天高く伸び上がったそれらは撫子を取り囲み、術者を守る植物の壁を形成した。
その壁が、飛んできた岩石を跳ね返したかのように見えた瞬間。
花が咲いた。壁の表面、重なる蔓の数箇所から。
透きとおるような光を放つ、蝶のような形をした真っ白な花だ。
弾き返されたいくつもの岩石に亀裂が入り、内側から爆ぜるように木っ端微塵になったのはそのときだった。
膨大な魔力をまとう白い花々によって引き起こされた現象だと廻は気づいた。
「花園作成。阿夜の固有魔法だ。植物を自在に操ることができるんだと」
先祖代々受け継いできた魔法らしい、と隣に立つ猿飛が言う。
なるほど、と廻は自身の眼鏡を押さえて頷いた。
「胡蝶蘭だね。ランは着生植物だから岩の魔法とは親和性が高い」
「なんだ小津佐、花に詳しいのか」
「そうでもないよ。昔ちょっと図鑑で見ただけ。でも──きれいな魔法だ」
彼女らしい魔法だと思った。
廻はまだ撫子のことをよく知らないが、昼間の空の下で堂々と咲き誇る純白の花は、あの凜とした黒髪の少女によく似合う。
シュルシュルと地面に吸い込まれるようにして消えていく蔓の中から、撫子が現れた。
「阿夜さん!」
懐に杖を戻しながらこつこつと歩いてくる撫子に駆け寄り、すごいね、と廻は彼女に話しかけた。
「とてもきれいだったよ。他の花も出せるの?」
「……ええ」
「植物を生成する魔法自体は珍しくないけど、発動までの時間の短さと生長のスピード、その数がふつうとは段違いだ。花園作成っていうくらいだし、一度にいろんな種類の花を咲かせることも可能なのかな」
「……」
いつもの真顔で廻を見た撫子が、何かを言いたげに口を開いたときだった。
「──さすがは色欲の魔女。今度は編入生を誑かしてるんだ」
棘のある声が聞こえた。悪意を孕んだ視線を同時に感じる。
その矛先が自分──の前にいる撫子に向けられていることに気がつき、廻ははっとした。
色欲の魔女。撫子のことだろうか。本人のイメージからは随分とかけ離れた言葉だが。
「魔法省勤めの叔父さんはともかく、遅咲きの編入生を落としたところであの子になんの得もなくない?」
「単純に好みなんじゃない。風紀がどうこうって奇行が目立つけど、よく見るとけっこうかわいい顔してるし」
「普段おじさんばっかに囲まれてるから童顔男子に癒されたいんでしょ〜」
話しているのは隣のクラスの女子二人組だった。
廻たちのもとまで届く笑い声はお世辞にも品がいいとは言えず、その悪口が周囲の者に聞こえていることにも気がついていなさそうだ。いや、聞かれてもべつにかまわないのだろうか。
「そこまでして仮資格が欲しかったのかな。今日だってこれ見よがしに遅刻してきてさ。そんなに仕事が大変なら無理して学校こなくていいのに」
「しかたないよ。健気にがんばってるフリしとかないとバレちゃうでしょ」
わずかに声をひそめた女子生徒が、にやりと笑って愉しげな口調で言った。
「──自分が“異端者”だってこと」
廻ははっと息をのんだ。思わず撫子の顔を見る。
彼女たちの話が聞こえているだろう撫子は無言で、能面のような無表情からは少しも感情が読み取れない。
なんと声をかけていいかわからず、阿夜さん、と廻はただ相手の名をただ呟いた。
「魅了魔法を使って叔父さんを自分に惚れさせたって噂? いやさすがにそれはガセでしょ。ほんとに十戒を破ってたらもうとっくに捕まってるって」
「わかんないよ〜? だってほら、死んじゃったあの子のお母さん。先代の阿夜家当主も魔法で政治関係の人を誘惑してたって話だし」
ぴく、と撫子の肩がわずかに跳ねたことに廻は気づいた。
「ああ、それで弟がいまの大臣に」
「病死だって言われてるけど、本当は戒律違反でトトに捕まって殺されたって──」
「私、帰ります」
女子生徒の言葉を遮るように、彼女らしくない大きな声で撫子が言った。
廻を含めた周囲の者たちが驚いて目をみはる。
岩田だけが腕を組んで静かに頷き、撫子の宣言を許可するような素振りを見せた。
「阿夜さん、待って……!」
「こら編入生! お前に帰っていいとは言ってないぞ!」
すたすたと去っていく撫子を追いかけようとした廻を、後方から岩田の声が呼びとめる。
「でも……」
「お前の演習はまだ終わっていない。無断で授業を抜け出すつもりか?」
「な、なら! 次は僕の番にしてもらってもいいですか……!」
終わったら阿夜さんのところに行かせてください、と廻が頼むと、岩田はあっさり了承した。
「なら位置につけ」
「はい! ありがとうございます」
ぱたぱたと指定された場所まで走る。
遅咲きと呼ばれる編入生の実力が気になるのだろう。好奇心に満ちた他の生徒たちの視線を感じるが、いまはそれを気にしている場合ではない。
一刻でも早く撫子のもとに向かいたかった。
追いかけたところで自分に何ができるかはわからない。それでも、放っておきたくないと思った。
この場を去る直前の彼女が──あの常に凛とした姿勢を崩さない強い少女が、一瞬だけ泣きそうな顔をしたように、廻には見えたから。
「小津佐といったな。お前もこの学園の生徒だ。編入生だからといって手は抜かないぞ」
岩田が手のひらを天に向ける。
空に浮かび上がる魔法陣。大小さまざまな無数の岩が一瞬にして出現し、グラウンドに黒く大きな影をつくった。
大量の岩石の砲弾が廻めがけて発射される。
廻は片手を前にかざし、体内を巡る自身の魔力にすっと意識を集中させた。
静かに目を伏せる。足元に風が生まれ、ローブの裾がふわりと揺れる。
廻の立つ場所を中心として、グラウンドの半分を覆うほどの大きな魔法陣が地面に浮かび上がった。
次の瞬間。一斉に飛んできた岩石の動きが、空中でぴたりととまった。
「……!」
岩田があんぐりと口を開ける。
自分が生み出した岩のすべてが、まるで時間がとまったかのように宙で静止していたからだ。
ふうと息を吐いた廻は、目と鼻の先にとまる拳大の石から距離を取り、前方にかざした右手を静かに下ろした。
これでひとまず演習をこなしたことにはなるだろう。
とはいえ、いま廻が行ったのは単なる浮遊魔法と操作魔法の応用。さらに高度な魔法を示さなければ離脱は認めない、と言われてしまう可能性もある。
だから廻は念のため、切断魔法を発動して岩石の大きさを調整してみせることにした。
ザン、と鋭い音が辺りに響き、空中に浮かぶすべての岩石がサイコロのような形になる。いわゆる角切りだ。
「これで大丈夫ですか……!?」
ぽとぽとと雨のように地面に落ちる無数の立方体を前にして、廻は岩田に大きな声で問いかける。
ぽかんと口を開けたままの岩田から返事はなかったが、とめられないならかまわないだろうと判断し、廻はその場を駆け出した。
「き、きれいな断面だな……」
感心したように呟く岩田の声を背に、驚いた顔をする同級生たちの視線を浴びながら、廻は撫子のもとに走った。




