29 関係ない
男はかつて優秀な魔法使いだった。
約四十五年前にオズ魔法学園日本校を卒業し、魔法使い採用枠のある一流企業に就職。
女癖の悪さからか結婚して家庭をつくるようなことはなかったが、魔法使いとしての力で会社に貢献し、それなりに高い地位を築き上げてきた。
しかし数年前、男は会社をクビになった。若い女性社員へのセクハラが原因だった。
最初、男はその状況を悲観してはいなかった。
自分は魔法使いだ。
科学を超えた万能な力を持つ稀有な存在。五十を過ぎても雇ってくれる会社ならいくらでもあるだろう。
最悪、オズ魔法協会に泣きついてそこで仕事をもらえばいい。だから何も問題はないのだと。
だがそれは甘い考えだったのだ。
結論、男を雇う会社はどこにもなかった。
ここ数十年で魔法使いの数は増えた。それでも少ないことに変わりはないが、将来有望な若手と、セクハラ騒ぎで解雇された老年の男では比べるまでもないということだろう。
男は完全に寄る辺をなくした。
頼みの綱である協会にすら相手にされなかったのだからどうしようもない。
六十四歳。
妻や子はなく、唯一の肉親であった母親も病で三年前に他界した。
孤独な人生だ。
女遊びや賭け事であっという間に貯金を使い果たした男は借金を繰り返し、定期的に行っていたアルバイトも毎度のこと早い段階でクビになった。あと一年もすればもらえるはずの年金を待つことすらできなかった。
自暴自棄になって警察沙汰を起こしたこともある。
こちとら天下の魔法使いだぞ、と警官を相手に酔った勢いで暴れたとき、近くにいた野次馬たちに老害だとなじられたことは一生忘れないだろう。
年を取ったせいか、魔法もうまく使えなくなった。
魔力と体力が比例するという話は聞いたことがないが、昔より格段に腕が落ちたのはたしかだった。
仕事が見つからないのはそのせいだと男は思っている。
そうだ。年齢が問題なのだ。
魔法使いとしての実力が衰えたのも、再就職ができないのも、若い女に相手にされないのも。
すべては自分が老いたことが原因に違いない。
あと十年。いや、二十年若ければもっと人生を楽しめたのではないかと男は思う。
それだって足りないだろう。
自分がいちばん輝いていた二十代の頃に戻りたいと男は願った。願うだけでは飽き足らず、さまざまな魔導書を読み漁って若返りの魔法を研究した。
もちろん、本当に若返るつもりは毛頭なかった。
魔法による若返りはオズの十戒の第八条──若返ってはいけない、に反する。
さすがの男にも原初の魔女が定めた掟を破る度胸はなかったのだ。
要は現実逃避である。ありもしないことを妄想し、ただ自分を慰めていただけ。
つまらない余生だった。
失った過去の栄光と罪の夢想に縋りつきながら死ぬまでの時間を浪費する日々。
世間を恨み、自らの不遇を嘆き。みじめな気持ちを抱えたままこの生涯を終えていく。
──そう思っていた。あの魔法使いと出会うまでは。
酒に酔った男が、夜の街をふらふらとうろついていたときのことだった。
男の前に突然現れたその人物は、まるですべてを見透かしたような口調で、男の酔いが一度に醒めるようなことを宣った。
人生を変えたくないか、と。
──どういう意味だ
──そのままの意味ですよ。人生をやり直しませんか、と言った方が正しいかもしれませんが
その身に纏ったローブの頭巾をすっぽりと被っていたので、その人物がどのような顔をしていたのかはわからない。
男か、女か。声や身長の記憶すら曖昧だった。
思い出そうとすると頭に靄がかかったようになり、それ以上は考えるなと本能が警告を発するのだ。
──簡単です。若返ってしまえばいいんですよ。魔法を使ってね
最初にそう言われたとき、ふざけるなと男は怒鳴った。
そんなことをすれば自分は異端者になる。ただの死よりも恐ろしいとされるトトの制裁を俺に受けさせる気か、と。
──大丈夫。私が教える方法を使えば、戒律を破ってもトトに知られることはありません
動揺する男を宥めるように相手は笑った。
自分はオズの十戒を研究する魔法使いだ。異端者の胸に現れるアザの効力を消す魔法や、異端審問官の目を欺く魔法も開発した。だから安心して若返りの魔法を使ってほしいと。
その言葉を男は信じた。信じなければならないという強迫観念のようなものすらあった。
──なにもいますぐ返事をいただこうというわけではありません。なにせ魔法使い最大の禁忌にかかわることですから
覚悟ができたら三日後にまたこの場所にきてほしい、と男に告げてその人物は姿を消した。
あれから三日。
相手について覚えているのは、交わした言葉と本人が口にした──“蛇”という名前のみ。
それでも男は約束の場所にきた。
深夜十二時。繁華街から少し外れた、ひとけのない静かな路地裏だった。
人に聞かせられない話をするには最適──と言いたいところだが、いかにもな雰囲気すぎて逆に大丈夫なのだろうかという不安が男の中に込み上げてくる。
「──佐藤茂雄さんですか?」
男の名を呼ぶ澄んだ声が暗がりの中に響いた。背後から聞こえた声だった。
振り返ると、暗色のローブに身を包んだひとりの男がそこにいた。
身長は百七十センチくらいだろうか。前回と同様、頭巾を深く被っているので顔はわからない。
男だと思ったのは、女にしては声が低いように感じたからだ。
かといって成人男性のような太さもなく、子供のようなあどけなさを残した声は、しいて言うなら少年に近い。
(……“蛇”、か?)
心の中の呟きが疑問系になったのは、“蛇”に関する具体的な記憶が男にはなかったからだ。
三日前の夜に出会ったあの人物と同じような気もするし、違うような気もする。
だが、ここにいるということはやはり彼が“蛇”なのだろう。
「約束どおり来てやったぞ。……教えてくれるんだろ? トトにバレずに十戒を破る方法を」
「あなたは、どの十戒を破るつもりなんですか?」
「わかってるだろう。第八条だ。魔法を使って若返るんだよ、俺は」
「……どうして若返りたいんですか?」
「は?」
話が噛み合わない。
彼は自分の願いを知っているはずだ。知っているから十戒に背く道を提示してきた。その方法を教わるため、男は彼に会いにきたのだ。
「人生をやり直したくないかとお前が言ったんだ。それとも嘘だったのか? からかってたなら容赦はしないぞ」
怒りを込めた口調で男が言うと、困ったように肩を揺らして“蛇”は黙った。
その反応に男の苛立ちは加速した。やはり騙されていたのだと思った。
ふざけるな、と三日前の夜と同じように男は怒鳴る。
「俺はっ……あの頃の! まだ輝いていた頃の自分に戻って人生をやり直すんだ! 俺をコケにしてきたやつらを魔法の力で見返して、金持ちになって、好きなだけ女を抱いて……!」
「……」
「お前の協力なんかなくても俺はやってやる! 何もしなくたってどうせこのままくたばるんだ。戒律違反なんざ知ったことか……!」
男はそう言って懐から自分の杖を取り出した。
オズの生徒だった頃から愛用しているものだ。
最近では滅多に使うことがなくなったが、持ってきておいてよかったと男は思う。
「──だから、俺はお前を殺すぞ。騙されたことへの報復と、口封じのためにな」
相手の首に杖の先を突きつけて男は凄んだ。
本気だった。自分はたしかに落ちぶれたが、目の前にいる、おそらくまだ子供であろう人間ひとりを消すくらいなら造作もない。そう思いたかった。
「冗談だと思ってるのか? 掟に背くこともできず、ただの妄想でこそこそ自分を慰めてただけの腑抜け野郎に、人殺しは無理だって?」
“蛇”は何も答えなかった。
怯える気配すら見せないその様子に、男は自分が余計に馬鹿にされているような気分になる。
「俺は魔法使いだぞ。魔法使いにとってオズの十戒は絶対。俺が若返りの魔法を使うのを渋ってたのは、俺の中にまだ魔法使いとしてのプライドが残ってたからだ。べつにビビってたわけじゃない」
杖を握る右手に力を込める。
細い杖先が相手の皮膚に食い込む生々しい感覚が、昂る男の感情をよりいっそう刺激した。
「何が言いたいかわかるか? 十戒に親殺しの禁止はあるが、人殺しの禁止はない。つまり俺はお前を殺すのになんの躊躇もないってことだ」
自分はもう覚悟を決めたのだ。
魔法使いの掟に背き若返りの魔法を使う。人生をやり直す。
その罪を背負う人間が、殺人などにいまさら慄いていられるか。
「恨むなよ。お前が俺を馬鹿にするからいけないんだ。自業自得だ。こんなところに呼び出して、年上をからかって、ただですむと思う方が──」
「何を言ってるんですか」
自分の殺意をものともしない力強い声に男ははっとした。
男がびくりと動いたからか、風が吹いたからか。
相手が着ているローブの頭巾がはらりとめくれ、夜空の下にその顔がさらけ出される。
「魔法使いとか、十戒とか関係ない。人を殺すのは悪いことです」
黒髪の少年だった。
中性的な顔立ちをした、いかにも真面目そうな少年だ。
高校生くらいだろうか。夜の路地裏に似合わない健全な雰囲気。
三日前に出会ったあの魔法使いとは別人だと、その瞬間に男は悟った。
「……くそっ!」
気づけば男は攻撃魔法を発動していた。
自身の魔力を衝撃波に変えて放つだけのシンプルな魔法。ほとんど反射的な行動だった。
恐怖とはちがう。
少年から男への敵意はなく、どちらかといえば虫一匹殺せなさそうなその風貌に、恐れる要素は一つもないはずだ。
ただ、その目が。
暗がりでまっすぐに自分を見つめる少年の黒い瞳が、男の中にどうしようもない拒否感をもたらした。
正しさ、というものを突きつけられているような気がした。
正義とか、道徳とか。
社会で生きていれば多少なりともすり減っていくはずの純真さが、その少年の輪郭を描いているようだった。
「こ……こっちにくるな!」
男が放った攻撃魔法は、少年が展開した防御壁によっていとも簡単に防がれてしまった。
震える手で杖をかざし、同じ魔法を何度も何度も放ちながら男は後退する。
だが、少年の防御壁には傷一つ入らない。
(なんなんだ、こいつは……!)
顔色ひとつ変えず、自分を追い詰めるようにゆっくりと近づいてくる相手に男はあせった。
堪え切れず、少年に背を向けて男は走り出す。
逃げなければ、と男は思った。
“蛇”も、若返りの魔法もいまはどうでもいい。
傲慢なまでにまっすぐなあの少年の瞳から、一刻も早く逃れなければと。
「──こーら。逃げちゃだめでしょ」
男ははっとした。
老体に鞭を打つようにして全力で駆け、ようやく路地を抜けられると思ったところに、自分の行く手を阻むような人影が出現したからだ。
転倒しそうになりながら足をとめ、信じられないような気持ちで男はその顔を見る。
二十代、もしくは三十代の若い女だった。
すらりと背の高い茶髪の女が、細い腰に右手を当てた優雅な立ち姿で、男の逃げ道を塞いでいた。
「……っ、なんだお前は!? そ、そこをどけ……!」
「あら酷いわね。私のこと忘れちゃったの? 茂雄くん」
「は……!?」
首をかしげて妖艶に笑う女に男は目をみはる。
豊満な胸と肉付きのいい尻。逆光に映える、色気に満ちた美しい顔立ち。
普段であれば性的欲求が刺激されるような相手だったが、いまの男にそんな心の余裕はない。
自分の逃亡を邪魔する女を押しのけようと、無我夢中で杖をかざしたときだった。
「あんまりオイタしちゃだめよ。──じゃないと、こわーいトトにお仕置きされちゃうわよ?」
じゃら、と。
男の背後で金属音のようなものが響いた。
はっと息をのんで男は振り向く。
心臓が煩いほどに鳴っていた。こめかみに流れる汗が冷たい。
かつん、と響く路地裏の足音。静かに男を追ってきた少年のものだった。
その少年の両手に、木製の長杖が握られている。
彼のまわりには先程の金属音の正体──太く長い銀色の鎖が幾本も張り巡らされていた。
「まあ、うちの子は怖いどころかとっても優しい、かわいくて誠実なひろ〜い心の持ち主なんだけど」
──ね、廻?
と、歌うように言う女の声を背にしながら、男はひくりと唇を引きつらせた。
聞いたことがある。
ドロシーのしもべ──十戒に背いた者を取り締まる異端審問官たちは、断罪の鎖を操る魔法を使うのだと。
「若返らなくってやり直すことはできます。だから……異端者になるのはやめてください」
夜の闇を揺らすようなよく通る声で少年は言う。
先程よりも光の入る場所で見た彼の格好には覚えがあった。
全身を包む紺色のローブ。白いシャツに濃い青のネクタイ、黒いスラックス。
男もかつて着ていたことがある。オズ魔法学園の制服だ。
「なんで──」
大きく目を見開いた男の声は、少年の背後から伸びてきた数本の鎖に、呆気なくのみ込まれた。




